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2009年7月22日 (水)

すべてのことには意味がない

以前、ペルーのマチュピチュに向かうインカトレイルを歩いたことがある。

4日間歩いて、マチュピチュに行くわけだけれど

その途中に、いくつかの遺跡もある。

ある小さな遺跡に着いて休憩していると、
広場に大きな一枚岩があって、その岩の丁度、目線ほどの高さのところに
きれいな穴が開けてあった。

同行した仲間たちが、そこに額を当てて
「あっ、なんかピリピリする」
「おお〜感じる感じる」

なんていうので、僕は、そういうものを感じにくいというか、
以前は、実際に感じていたとしても、はっきりと、明確に感じないと
信用しないというような懐疑的なタイプだったから
渓谷を眺めながら、彼らを興味なさげに見ていた。

もちろん、人それぞれの感覚は大切にしたいし、
そういう感覚を認識できる人々が多いのも事実だ・・・

みんながいなくなって、なんとなく、自分もその場に立って
額を当ててみた。。。

僕はそういう男だ・・・笑

・・・・・・

何も感じない。
やっぱり・・・

そんなもんだ。。。

感じる人には感じるのかもしれない。
錯覚か、そう思いたいから感じるのかもしれない・・・


すると、ふとインスピレーションというか
概念が頭に浮かび上がった・・・

正直言うと、浮かび上がったと言うよりも
誰かが語りかけて来る感じというのが正確な表現だ。


「そんなことをしても意味はない」

どういうことかと思った。

僕は、その場から3歩ほど下がり、その穴を眺めた。

「それも意味はない」

なんだろうと思って、向きを変えてその場にしゃがみ込んだ。
すると・・・

「それでも意味はない」

頭の中には、言葉が聞こえるのではない。
概念でやってくるので、それを言葉にするなら、こういう意味といった感じだ。

もちろん、それを自分の中にわき上がってくる、自分の言葉としてもいい。
でも、そんなことはどうでもいいのだ。

大事なのは、勝手にメッセージがわき上がってくることなのだから。

すると概念は、こう続いた。

「人間は何でも意味をつけたがる。すべてのことに意味はない」

そう言われた。

意味がよくわからないまま、なぜか何となく納得できたような気がした。

その後で、インカトレイルを歩く1時間〜2時間程度
そんな状態が続いたのだけれど、言ってみればチャネリングのような現象は
同じようなものなのだろう。


この時の出来事を含め、このメッセージはずっと頭に残っていて、
その意味を深く知るようになる。

言語学では、「意味」と「意味するもの」がある

例えば「木」を表現するとき「意味」は「木」という植物であり、大きくて、
葉っぱがたくさんついていてとか、説明できる

一方「意味するもの」は、木という言葉やtreeでもいいし、
木の絵や写真そのもののことだ。

ある現象を見て、みんなそれをそのまま受け取るけれど、
それについて、説明し始めると、口々に違うことを言い始める。
それは、その人の価値観に基づいて語るからで、

意味そのものが異なっているとは限らない。


この意味というものは、理解のために必要なもので、

そもそも、理解が必要かどうかが問題になる。

理解しないと行動しない。理解しないと何もしない。
そうやって、チャンスを何度も逃している。

理解できていなくても行動することはたくさんある。
クルマの仕組みを理解していなくても、運転したり。
パソコンの仕組みを理解していなくても、使っているものだ。

意味は、必要なときに、理解のために求めているもので、
それは、僕たち人間が、この三次元的な空間、四次元的な時空間で
意識を安定させるための道具に過ぎない。

五次元意識以上の世界では、いまの三次元意識的な意味は、意味をなさなくなるし。
その意味を用いて、理解しようとすると、パラドックスに陥ることになる。

あかちゃんや幼児の行動は、とらわれが無く、ある意味で五次元的だ。

予想外の行動や不可思議なことをさらりとやって、大人を驚かせる。

子供たちは、意味無く行動するものだ。

僕は、きっと、そうした行動の中に本質があって、
もっと上位の次元では、そうした中に、新たなカオス的な秩序が潜んでいると思っている。

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7月 22, 2009 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年7月17日 (金)

意識はヴァイブレーション

意識について考えること自体、パラドックスに落ち込むことになる。

それは、なぜかというと、意識は、3次元的空間プラス時間で

4次元的な時空間では、意識の本質は捉えられないからだ。

意識の本質は、5次元以上の世界にあって

意識の本質を我々の思考の時空間で捉えようとすることは

永遠に続くモグラたたきゲームで、答えはでない。

意識について、語るとするならば、

荒い意識と精妙な意識があるといえる。

わかりやすく平面的に、二次元波動で表現してみると

荒い波動は、Aのように大きな波となっている。

精妙な波動はBのように、細かなバイブレーションで表現される。

Photo


人生の時間的長さを同じとするならば、という表現自体おかしいのだけれど、

なぜなら、時間は、一人ひとりが自由に創造できるものだから・・・

この話は、またにしよう・・・


仮に、同じとするならば、バイブレーションの荒い人は、大きなアップダウンがあるように

人生の中で、大きなトラブルが何度かある。

本当は、いろんなストレスがかかっていても、
そこに気づかず、また、見ようとしていない。

そのために、ため込んだネガティブなエネルギーが大きな現象を引き起こす。

意識が精妙になっていくと、こうした人生を激変させるような大きな問題は
起こらないかもしれないけれど、

実は、日々、もっと言えば毎瞬毎瞬、小さな感情の変化に気づくことになる。

意識が精妙になってくると、ネガティブなエネルギーをため込まなくなるので、

こうして小さな感情の変化を見つめながら、それを観察し、内省して、
うちなる自分へとフィードバックしていくことで、
より意識は精妙さを増していく。

荒い意識は、自分の感情の問題を、他人せいにしたり、自分で責任をとろうとしない。

自分の宇宙で起こる全ての出来事は、
自分自身の中で起こっているのに。。。

意識のバイブレーションが荒いと、波動のピークの数のように、

「知っている」数は、この山の数と同じ。
荒いと山の数は、例えばAなら5つ。

つまり、誰かのことを知ってるというのは、5つの情報しか持っていない、
いや、持てないからだ。持とうという意識もない。
バイブレーションが5つの山しか許容しないからだ。

だから、こういう人たちは、こうしたわずかな情報で人や物事について判断し、
そうしたものだと決めつけてしまう。

同様に、自分自身についても、知ろうとしないし、
知り得ることもできないということになる。

意識が精妙になってくると、Bのように小さな山が無数にあるように
この山は、いわゆる触覚、センサーのような役割をもつ

人についても、世界についても、物事についても
その微細な感覚を掴んで、たくさんの情報を瞬時に5時限的に把握して
理解することができる。

だから、その人や物事について、やたらに決めつけたり、判断したりしない。
判断しないから、比較もしない。

判断はできない、なぜなら、本質から見れば、その人や出来事の一時的な側面は
一時的な部分が現れているに過ぎないことを知っているからだ。。。

荒いバイブレーションは、川の上流の大きくて、ごつごつした岩のようなもの。

精妙なバイブレーションは、川の下流の丸い石ころ。

そして、石ころは、さらに丸められて小さくなって、

最後は、小さな小さな砂粒になって、大いなる海へと還っていく・・・

意識もそうして、大いなる中へと還っていくのだ。。。

7月 17, 2009 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年7月11日 (土)

マインドゲーム

マインドはゲームをする

ハイヤーセルフはゲームをしない

マインドは心

心は揺れる

ハイヤーセルフは揺れない

軸そのもの、本質そのものだから

心はハイヤーセルフにまとわりつく表現体

まったく定まるところがない

マインドを安定させようなんて試みることはナンセンスだ

あっちに振れれば、こっちに振れる

時計の振り子みたいに、心なんてそんなもんだ

そんな心によりどころをもとめてもどうにもならない

軸から離れれば離れるほど、揺れも大きい

軸そのものならば、揺れることはない

揺れることへの依存

依存は楽かも知れないけれど、常に影響を受ける

影響を受け続ける限り、本当の自分には近づけない

依存から全く離れるのは難しいかもしれないけれど

依存から距離を置くしか安住の地はなく、平和はやってこない

自立とは、自分自身であること、自分の道を歩くこと

影響は受けるけれど、選択の意志は何者にも渡さない

選ぶことはできる

マインドが揺れるのは、ゲームでしかない

ゲームは永遠に終わらない

ゲームそのものになれば、ゲームそのものを楽しめる

ゲームの中の駆け引きのどちらかなら、疲れ果ててなお
ゲームを続けることとなる

そろそろ駆け引きをやめよう

マインドゲームから離れよう

自分の軸に戻るのだ

7月 11, 2009 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年7月 9日 (木)

泥を落として楽になる


子供の頃、雨上がりの工事現場のようなところで、
地面は、あちこちに水たまりがあって、
そんなところで遊んでいたら、スニーカーに
だんだんと泥がくっついてきて、場所によってはぬかるみで
ズボッと足を取られてしまったりと、よくそんなことがありました。


あなたはそんな経験はないですか?


ぬかるみは、当然歩きにくいわけです。
泥だらけの靴も、重くて歩きにくい。


クルマでもそうですが、ぬかるんだ場所を走行するには
四駆や戦車のキャタピラーみたいなのが必要になったりします。
ぬかるみでも平気な乗り物があります。


これって、人間の魂も一緒です。

ぬかるみに強い魂とぬかるみに弱い魂があります。

クルマで言えば、速く走るための最高峰のクルマはF1ということになります。
しかし、このF1は、サーキットしか走れません。

法律の問題以前に、一般道は、ギャップや陥没、荒れた舗装や坂道など起伏に富んでいます。
F1は、サーキットという最高に整備されたコンディションで、
しかもF1が走れる基準を満たしたサーキットでのみ走行できるのです。

一般道で走ったら、車体の底部のアチコチをクラッシュして、
ほんの少し走っただけでも、車体を痛めてしまうほどデリケートです。

それに比べて、ジープのような四駆だったら、とんでもない悪路でも、
何とか走破できるかも知れません。

とても繊細で、その才能を100%発揮するには、
F1のサーキットのような、整備された環境が必要な魂もあります。


どんな環境でも生きることができる魂もいます。


でも、どれがいいというわけではありません。
それぞれがあると言うことです。

ぬかるみに弱い人は、ぬかるみをあるかないことです。
挑戦しても苦労するだけです。
ぬかるみをやめて、整備された場所に行きませんか。

そして、まずは、泥を落としてください。
するとスッキリして、楽になります。

世の中は、心の世界の象徴です。
だから、ほとんどの道がアスファルトになっているように
整備された場所もまたたくさんあります。

もう、ぬかるみを歩いて苦労することは必要ないと気づいてください。

いま、この瞬間を楽しいと感じるところを生きてみるのはどうでしょう・・・・

7月 9, 2009 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 8日 (水)

種の中に大木がある

ガンジーの言った有名な言葉に、

「種の中に大木がある」という言葉がある。

僕は、この言葉が好きだ。

どんなに巨大な大木も、はじめはたったひとつの種から成長する。


世の中には、偉業をなした人々がたくさんいるけれど

みんな、こんなことやってみよう、こんなことやってみたいって思って

そんな小さな思いの種を育てて偉業をなすわけだ。

はじめは、みんな小さくて、同じようなもの。

だから、誰だって始められる。

思いは、誰も同じようなものだ。

確かに違いはある。

そんな種を芽吹かせ、成長させて行くには簡単ではないかもしれない。

でも、それがどんな種かわかっていれば、

育て方も自ずとわかるだろう。

世の中で、まったく初めてというものなんて存在しないから。

何らか参考になるものはあるはずだ。

その種が、どんなものに成長する種なのか知らなければ、

育て方も難しいかもしれない。

育て方はそれぞれ違うから。。。

高温多湿を好む植物は、低温の乾燥地帯では育てられない。

みんなの思い、夢をちゃんと芽吹かせ、育てるには、

その種がどんな種で、どんな環境で育つものなのかをよく知っておくことは大事だろう。

あなたの種は、どんな種?

種の中の大木は、どんな姿なのだろう・・・


7月 8, 2009 心と体 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月 7日 (火)

マン・オン・ワイヤーを見た

以前紹介したマン・オン・ワイヤーを見ました。

いま、新宿高島屋のテアトルでやってます。

素晴らしいの一言

当時、世界一の高さを誇ったワールドトレードセンター
屋上411メートルもの高さに3センチにも満たない
60メートルものワイヤーを8回も往復し
45分間も留まっていた・・・

なぜそんなことをしたのかの質問に

「なんで理由が必要なの?ただやってみたかったそれだけだよ」

何かをするのに、みんな理由を求めがちだけど、
本当は、理由なんていらない。
やってみたいことを体験する。

これが、僕たちの生きている世界。。。

何よりも、この違法な計画を実現するために
どれほどの苦労があったか・・・

ただ単に、ツインタワーを渡ったわけではなく
入念な準備を重ね、そのシンプルな遊びに、
これほど情熱をかけられることが
とても素晴らしかった・・・

フィリップ・プティを始め、この夢を実現した仲間たちは、
みんな最高の芸術家たちだと思った・・・

ぜひ、見て欲しいな・・・

「僕は、これ以上できないと聞くと、それは違うと思うよ。
何事も試してみなきゃ。人生は、何でも試すことに価値がある。
何かをしても、常にまた次にすることがでてくる。
もし、比較しなくなったら、創造することをやめてしまうというような
話ではない。まず、他人を気にするんじゃなく、自分自身の夢に
向かっていくべきなんだ。そこには、数え切れないほどの
素晴らしいことが待っているはずさ」 
  
               フィリップ・プティ


いま、ロバート・ゼメキス監督がマン・オン・ワイヤーを題材にした、
映画を制作中らしい・・・

マン・オン・ワイヤー公式サイト
http://www.espace-sarou.co.jp/manonwire/


7月 7, 2009 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 5日 (日)

ここはどーこだぁ?

先日撮ったお気に入りの写真!

ここはどこだと思う?

エジプト?
パリ?
ニューヨーク?
ラスベガス?

Photo


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2009年7月 2日 (木)

ウルトラマンがいるから怪獣がいる

にわとりが先か、卵が先か・・・

ウルトラマンが先か、怪獣が先か・・・


怪獣がいるからウルトラマンが現れたのか

ウルトラマンがいるから怪獣が現れたのか

もし、怪獣がいなくなったら、ウルトラマンの存在価値がない

ウルトラマンという想念が、戦う相手にふさわしい怪獣を生み出してる

そうでなければ、ウルトラマンの価値は、公共事業の建設の手伝いや
災害現場での救助に活躍したり、平和のシンボルとして慈善活動をするのかな。。。

世の中に犯罪が無ければ、警察はいらない

フランソワ・トリュフォーの映画「華氏451」では
未来社会は高度に管理されて、火災が無くなり
消防士の仕事は、本を探し出して焚書すること

未来社会では、テレビ以外から一切の情報を得てはいけないということになっている

警察がいなくなったら、犯罪はどうなるのだろうか

本質的には、警察を必要とする恐れが、犯罪を生んでいる

怪獣もそうだ、人類を危機に陥れる怪獣が現れたら・・・

そんな想念が怪獣を生み出す

本当は怪獣は象徴で、みんなの心の中にある恐れというモンスターだ

ウルトラマンは必要なく、心の迷妄である恐れを消し去れば、怪獣は消えるのだ


救世主を求める僕たちは、同時に、僕たちの中にある罪悪感や
世界に救世主を必要とする問題があることを肯定して
現実に、世界の危機を生み出している

ウルトラマンが来なければ、怪獣も現れる意味がない

怪獣はウルトラマンに倒されるためにやってくる

怪獣の意図は何か?

怪獣の本意は何なのか?

人類を危機に落とし入れることによる、怪獣のメリットは何か?

彼らは、もしかしたら、人類の存在なんてわかってないのかもしれない

どう考えてもそんな知性は持ち合わせていないだろう

凶暴なその姿や行為は、知的な意図ではなく、突然、地球に現れて

パニックになって暴れているだけかもしれない

でも、どうやって、地球に現れるんだ。。。!?

怪獣が現れるのは、人類の想念によって引き寄せている

想念を解決しないと、怪獣をやっつけても
また、次の怪獣が現れるのだ

ウルトラマンがいないとき、初めて、僕たちがウルトラマンになるときが来る

人類の存亡をかけた叡智の結集こそ、真のウルトラマンの誕生の時なのかもね・・・!?

7月 2, 2009 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)