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2010年4月16日 (金)

自己探求すると言うこと

人生を生きる中で、いろんな問題が起こります。

自分にとって嬉しいこと、楽しいこと、充実感を味わえることなど、
とてもポジティブに感じられるとき、いいことが起こっていると感じたりします。

いいことって何でしょうか?

では、悪い事って?

いい、悪いというのは、何か対象となるものと比較して、
自分にとって都合がいいとか、快適だとか、好ましく感じられるとき
それは、いいことであり、そうでない場合は、悪いこととするでしょう。

こういうのを二元的なものの見方と言ったり、相対的なものの見方と言います。

僕たちは、実に、ものごとを相対的に見ていることに気がつきます。

例えば、時間が早いというのは、12時に誰かと待ち合わせしたときに、
12時よりも前ならば、早い。
12時を過ぎていると、遅いわけです。

あのクルマは、速いと言うときに、
ただスピード感がある時に速いともいいますが、

それは普通のクルマが、いわゆる一般的な速度、40キロから50キロ程度(これもすでに相対的なのですが)に対して、
100キロ以上で走っていると、速いと言ったりします。

ただ単に速く見えるクルマも、実は、何かと無意識に比較して「速い」なあと言っているのです。

僕たちは、自分という存在と他社という存在を認識しています。

また、自分と環境とか、自分と社会、自分とモノなど

自分以外のものや世界を認識して、自分と区別します。

お風呂で、自分の身体を洗っているときに、足先まで洗って、そのままお風呂の床を磨きだし、
そのまま壁、浴槽など。。。果ては家中を洗い出し、永遠に洗い続けることはしません。
自分とお風呂の区別があるからです。

といいながら、お風呂掃除をそのまま始めてしまう人は、結構いるのではないでしょうか・・・笑

僕たちは、無意識に自分という存在を認識して、他と区別しています。

区別することで、生命体としての自己を活かしているのです。

自他が区別できないと、精神は混乱してきます。その先に、生命活動が危機に瀕するでしょう。

しかし、この区別という感覚は、あまりにも当たり前で、日頃この問題について考えることはありません。

バッグを誰かに奪われたら、「ドロボー!」と叫ぶなり、驚くなり、反応します。

自分のものを誰かに奪われると、困るわけです。でも、なぜ困るのかを、真剣に、深く深く考えることはありません。

自分のものは、奪われては多くの人にとって困るのです。理屈を考えてる場合ではないかもしれません。

奪われることについて、考えてみるのはどうでしょうか?

あなたにとって、奪われては困るものとは一体何でしょうか?

なぜ困るのでしょうか?

なぜ、奪われるのでしょうか?

あなたは、奪おうとしたことはないでしょうか?

自分と自分以外の人、自分以外のもの、自分以外の世界とは何なのでしょうか?


インド哲学では、ウパニシャッド哲学とかベーダというのがあります。

ここでは、人間とは何か、人間という存在とは何か、宇宙とは何かが数千年の昔から探求され、
3000年くらい前に、哲学として体系化されたと言われていますが、

ベーダーは、とてつもない思想体系がまとめられていて、
いまだに全てが研究しつくされているわけではないようです。

しかし、結局、そこで何が解かれているかというと、

『あなたは、宇宙である』

ということを、あらゆる角度から語られていると言うことです。

これがもっともよくまとめられているもの、象徴的にまとめられていると言ってもいいと思うのが

『バガヴァッドギーター』です。

ここでは、何度も『イーシュヴァラ』(全体世界(宇宙))と言う言葉が繰り返されるのですが、

自分はイーシュヴァラそのものであると言うのです。

つまり、自分と他はひとつであり、境界などないのだと言うことです。

愛の本質とは、まさに、この自分と他者の境界を超えたところにあると思うのです。

物質生命体としての自分の生存を守る、維持するために、外部から自分を守るために外的世界と対抗するのではなく

自他の境界をなくし、自分という意識を拡張したときに、

他者も他のものも、外的世界も自分なんだと理解できるようになるはずです。

という言い方をするのは、僕はまだそこに行ききってないからです・・・笑

愛するというのは、区別のないことです。

自分を愛さない人はいません。愛がなければ存在し得ないからです。

自殺する人は、愛がないのではありません。

愛がないと思いこんだ、本当の自分ではない自分、自分の人生のプロセスの中で
自分が外的世界との関わりの中に築き上げてしまった自分という存在が
自分には価値がない、存在する意味がないと思いこんだり、
自分を傷つけた人から逃れたい、または、復讐したい思いから
自分という存在を自殺というカタチで消滅させたり、傷つける事によって、証明したり、訴えようとしているのです。

自分という存在の本質が理解できれば死ぬ必要などないのです。

どうせ、誰しも、いつか死ぬんですから。。。

他人を傷つけるというのも、その人に愛がないわけではありません。

愛が見えなくなってしまっているだけです。

そもそも愛がないと言うことはあり得ません。

自分という存在は、愛そのものであり、愛が故に生命体として結実しています。

細胞ひとつひとつのつながり、細胞を構成する元素、原子の働きは

愛故に成り立ち、存在しています。愛とはエネルギーだから・・・

この空間にある、どこにでも偏在する元素が、神秘的なエネルギーによって結実し、

僕たちという肉体になっているわけです。

何が結実させているのか、自分という存在に成り得たこの細胞の成り立ち、顕れはどこから来ているのか。。。

考えずにはいられません・・・


僕はいつも感じています。

自分と他者、自分以外の世界について、

自分という存在は、全体宇宙に内包されている。

自分の意識がどんどん拡張していって、他者との区別がなくなり、もっと拡がって、地球レベルまで拡張して、

そして、宇宙全体まで拡張する・・・

そこに、自他の区別はないのです。

他人に、その人の見にくい部分を見る時、それこそが自分であることに気づくのです。

それは醜いものではなく、自分の心のゆがみであり、自他を区別するところから来る
本質を見失っていることに他ならないのではないでしょうか?

僕が自己探求する意味は、これは魂が求めていることであって、

自分という存在を深く見つめたその先に、全体宇宙へとつながる道へと導かれているに他ならないと考えるからなのです。。。

ここで、誤解なきよう。。。
自他の区別がないから、他者のものを奪うと言うことはイコールではありません。

なぜなら、それを自分が所有する必要がないのです。

自分には、必要十分なものがもたらされるようになっています。

所有は、それがなければいけないという思いが背景にあり、そう思うのは『怖れ』が背景にあるからです。

あってもなくてもどっちでもいい・・・この感覚は大切です。

必要なだけあるようになっているから。

全てはプロセスであり、体験です。

例えそれが、もたらされた死であろうとも、それは怖れではなく、死という体験であり、
それをどう感じ、味わうのか・・・そのためにもたらされいるだけのものなのです。

『バガヴァッドギーター』は、友人の向井田みおさんの書かれたものが、素晴らしくわかりやすいです!オススメします!

優しく学ぶYOGA哲学 バガヴァッド・ギーター 向井田みお著

4月 16, 2010 心と体 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年4月13日 (火)

エネルギーは伝わるもの

人生を生きることは、波間に浮かぶ小舟のようなものではない。

多くの人にとって、そのように生きること、

生きてしまうことはあるかもしれないけれど

そのような認識から、思いこみから離れて、

自分は、波そのものであることを思い出すこと、

波そのものとして、生きることができれば、人生をもっと深く味わえるだろう。

波のその性質は、伝わる力であって、

波は時間と空間の中で、媒体、つまり、伝わるものを介して伝わっていく。

波が伝わる媒体そのものが移動しているのではない。

例えば、海の波は、海水そのものは、波と共に移動するのではなく、

波が来ると、その場を上下しているに過ぎない。

ベッドにシーツを掛けるとき、大きく波打つけれど、

シーツそのものが、広げた方向に飛んでいくわけではない。

僕たち人間は、こんな風に、エネルギーを伝える媒体でもある。

人は存在するだけで、エネルギーを伝えている。

意図する、意図しないに関わらず、エネルギーは伝わるし、

ただ、媒体となる質はそれぞれ違うので、伝わり方は違ってくる。

例えば、音叉のように、同じ長さの音叉どうしは、一方の音叉を鳴らせば、

もう一つの音叉も共鳴してなり出す。これは、空気を波動が伝わって

この音叉を共鳴させるから。

僕たちもこうして、共感するエネルギーには自然に共感するもの。

心に響かないのに、響こうとすること自体無理な話だし、

そこにストレスがあるわけで。。。

時代にならされた多くの人は、音叉にいろんなものがまとわりついてマヒした状態に近く、

そうした響きの共鳴が起こりにくくなっている。

まずは、自分を見つめてクリアにしてみよう。

クリアにするだけで、勝手に響き出すだろう。

響かないのは、クリアになってないから・・・ただ、それだけ・・・

4月 13, 2010 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

内なる世界がすべて

明日から東京に移動、東京も明日から曇り→雨みたい。
曇り、雨と一緒に移動だな。

天気や環境に左右されるようでは、まだまだ内的世界を外部と統合できてないということか・・・笑

カナダや北欧では、冬に自殺者が増える・・・

太陽が昇らない、暗く、寒い、雪と氷に閉ざされた世界で、

昔は、共同体にシャーマンがいて、みんなで支え合い、物語という共同幻想、

共有する内的世界を持っていた。

だから、そうした物語は、内的な世界ですごくリアリティを持っていて、

子供が、おばけを本気で怖がったり、魔法使いの話をとてもリアルに信じていたように・・・

だから、日本も昔はカッパがいたわけだ。

川岸の草かげに見えるものを、何某かの怪しげな生き物と思い込み、

それはカッパだと言うことになれば、カッパはいたことになる。

内的世界と外的世界はつながっていて、そのように世界を理解することで

とてつもない自然と対峙するときに、そのような物語によって

耐えきれない精神を保っていたのかも知れない。

病気は、心の病と言うけど、気の持ちようで、身体は変化し、抵抗力も生まれ、

治癒力も発揮する。究極は、意識の力だけで、肉体存在を超越できるはずだ・・・

おそらく、現実とはそんなものなのだろう。

現代のリアリティとは、内的世界と外的世界の分離で、そこをつないでいたアダプターが取り去られてしまった。

家族の絆も、社会との絆も、自然環境との絆も・・・

インターネットやツイッターは、そうした内的世界、精神的世界と外的世界をつなぐ、現代の親和であり、

アダプターとして、僕たちは、無意識に求め、つながろうとする進化のプロセスなんだと思う。

その先には、インターネットも必要なくなって、この象徴的な機能を追体験することによって、

本来持っているテレパシックな本質的な力を、思い出そうとしているのかもしれないね・・・

4月 13, 2010 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年4月 4日 (日)

怖れは存在への危機感情

怖れとは実体のない感情。存在が脅かされる時、存在の危機を感じているだけ。存在の本質は永遠なのに。怖れは、肉体生命としての存在の危機を知らせる安全装置。肉体生命に宿るふるい記憶。何に怖れを感じているのか見つめて見よう…


4月 4, 2010 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)