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2010年11月28日 (日)

やっぱりシンクロは不思議!

昨日は、スピボイにも登場いただいた、おだっちこと小田氏と、
クエストカフェ初のビジネスセミナーを行いました。

少人数での開催にはなりましたが、結果的に、膝をつき合わせての、
非常に濃密なセミナー。。。!? となりました!

ほとんどグループコンサルティングのような感じで、進むこととなり、
僕たちも、じっくりと皆さんと関われて、とても充実して、楽しかったです。
ご参加の皆さんにも満足いただき、良かったです!

次回も、また、小田氏と一緒にコラボセミナーをやろうと言うことになりましたが、
今度は、また、形態を変えてやりたいと思います。

たぶん、ビジネスという切り口ではなく、生き方そのものに焦点を当てる内容になると思います。

ところで、昨日は、カミさんも来ていたので、
カミさんが行ったことの無かった、新宿三丁目へ二人で飲みに行きました。。。笑

立ち飲みの串焼き屋さんで、まずは一杯と思っていたんですが、
そのうち二杯となり。。。

そうしていると、なんとそこに、僕の会社のクライアントの社長とスタッフの方が来られてビックリ!
カミさんも一度、会っていたので一気に盛りあがりました。

半年くらい、直接会っていなかったのだけど、
久しぶりに、明後日、打ち合わせに行く予定だったのだけれど、
こんなところで会うとは・・・本当に驚き!

シンクロは当たり前というものの、やっぱり不思議なものですね!

11月 28, 2010 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年11月22日 (月)

ものに執着しないとは

物質的であるというのは、ものを持つ持たないは関係なく、
そのものに執着があるかどうかだ。

ものを持たない暮らし。
家の中がシンプルで、何にもない暮らし。

それは、ある意味で、ミニマリズムというスタイルとも言える。

もともと日本の文化・伝統にはそういう美学があって、
茶の湯のようなできるだけ質素で、シンプルなものは美しいと感じる感性がある。

でも、本当は愛着を感じるものに囲まれて暮らしたいと思うなら、
それはそれでいいと思う。

愛着なのか、執着なのかは、見極める必要がある。

ものを所有したい、ものを持ちたい時に、
そのものがどういう意味を持っているのか?が大事だ。

自分という存在を強く見せたい、権力があるように見せたい、
お金があるように見せたい、美しく見せたいなど、

そのままの、あるがままの姿ではなく、何某か他者に対して、
自分をより良く見せたいという思いばかりが拡張して、
結局、本来の自分ではない、そのままの自分には自信が無くて、
それを補うためにものによって、物質的なものによって、
自分を拡張して見せたいとするなら、それが意識的にせよ
無意識的にせよ、そうであるならよく考えてみる必要がある。

本来ならば、あるがままの自分でいいはずだ。

ただ、だからといって、おしゃれをしない、
簡素で粗末な住まいに暮らすことがいいということではない。

自分を素直に表現すること、必要以上に飾り立てることは違う。

そもそも、自分という存在は、自分という魂が選んでこの世に生まれてきた。

僕は、そう考えている。

そうならば、ここに存在すること自体が、すでに表現であり、
肉体としての存在は、もっともシンプルな表現形態となっている。

そして、自分が大好きなこと、自分が自分らしく表現することは、
この肉体としての表現の延長線上にあって、その一部と考えてもいいだろう。

ライフスタイルの中で、例えば、住まいやインテリアをどのようにしたいのか、
これも、その延長線上だ。

何を快適と思うのか・・・

湖があって、山があって、花々が咲き乱れる
そんな美しい自然の中が大好きだというなら、

それも、自分の延長線上にあるものだろう。

ファッションやインテリアを自分らしく整え、
自分らしい環境を創ることは、自分らしさの延長線上と言うことだ。

どこからが、過度なのか・・・
何が、本来の自分ではない自分を表現しているのかは、
自分が一番よく知っているはずだろう。

本来、ものへの執着がないというのは、ものを持つ持たないではなく、
ものを持つこと自体ではなく、それへの執着がないと言うこと。

こだわらないとは、
どちらでもいいということだ。

興味がないというのはわかるが、だから嫌い、
持ちたくないと言うこととは違う。

興味がないという事で、否定するとすれば、
そこにエネルギーがあるわけで、
拒否したい思いがあるわけだ。

なぜ、拒否したいのか・・・
そこを見つめてみる必要があるだろう。

あの人は、嫌いだ。
なぜ、嫌いなんだろう。

単に興味がなければ、その存在はどちらでもいい。
目の前にいても、空気みたいなものだろう・・・

自分が愛するものは、他者が見ても愛を感じるものだ。

そこに愛があるかどうかで、ものとの関係、距離を見つめてみてもいいかもしれない。

あなたの身の回りのものに、愛情は注がれていますか?

11月 22, 2010 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月15日 (月)

表現すること・・・

何某かの特別なスピリチュアルな能力を持つことと、
意識的な悟りは関係ないようです。

何か特別な感覚や情報を受け取ることができる人は、
ただ、そのような能力が生まれつき備わっていたり、開発されたりする。
それは、臭覚、味覚、触覚など五感で感じ、認識するものと変わらぬ能力のひとつなのでしょう。
いわゆる、シックスセンス・・・

そのような特殊な能力をもっているからといって、
その人が悟りを開いているとか、言動が真理に基づいているとは限らない・・・

よく、カンフー映画にもあるけれど、
武術に長けた人が、武術を武器に、人々を脅かす存在になる話はよくあること。
その能力をどのように扱うかは、別問題。

そういえば、ジャッキー・チェンのベストキッドもそんな感じですね。。。
http://www.bestkid.jp/

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逆に、何の特別な能力を持たない人で、素晴らしい人格、人間性を感じる人も多く、

また、特別な感性を持っていても、決して、それを表に出さない人もいる。

聖人とよばれるような人でも、そうした特別な感性を全く持っていない人もいるのです。

能力は何のためにあるのか・・・

能力は使ってなんぼのものではない。

使うべき時に使う。
使いたいときに、いつでも使える。

そういうものであればいいと思うのです。

それは、元来備わったものでも、努力して獲得したものでもいいわけです。

能力を見せたい人がいます。
そういう自分に気づいていない人もいます。

なぜ、見せたいのでしょうか?

自分の能力を見せたい。。。
私には力がある。こんなものを持っている。
周りにいる人は、その人が持っている能力を知らない。

そう思っている。

だから、その能力を見せて、自分の力を知らしめたい。

その人がそのようにあるのは、その人が見せたいという思いを持っているだけではなく、
周りにいる人も、その人が能力を持っていることを知らない。
持っていると信じていない。関心がないために起こるのです。

Spidernetsmall_2


もし、人々がお互いに全ての人には、何某かの素晴らしい能力を秘めている。
その能力がどんな能力であっても、等しく100%認めてあげるならば、
あなたは素晴らしい能力を秘めていると知るならば、
みんな認められていることを知り、満たされます。

それがどんな能力でもいいのです。

愛とは、そうして何も区別せずに、ありのままに認めることができる力。

自らが満たされている人は、地中深くから蕩々と湧き出す泉のように、
内なる喜びから表現され、それは、誰のためでもなく、
自らの発露として、現れるダンスのようなもの・・・

それは、あまりにも自然で、美しく、喜びに満ちているので、
周りの人々も、それに魅了されるわけです。

本来、すべての表現とは、そのようにあるのが自然です。
それは、相対的、二元論的なものではなく、つまり、対他が存在しなくとも表現される。

自らの喜びとして輝くわけで、太陽のようなもの。
太陽は、地球や私たちの感謝の度合いによって、
その光の加減や温かさを変えることはありません。

何のために、表現するのか・・・

表現とは何か・・・

何かのために表現するのは、何故なのか・・・


少し考える必要がありそうです。


11月 15, 2010 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年11月14日 (日)

久しぶりのブログは・・・

ここのところまったくブログを書いてなかったけれど、
それには訳があって、

訳と言うよりも、理由、事情があって、

それは何かというと、書く気がしなかったから・・・

なぜ、ブログを書くのかの理由は、人それぞれで、

こうして、自分の考えや思いなど、メッセージを書くというのは、

表現することなわけです。

何のために表現するかというと、それによって、その表現に対するリアクションを期待する場合と、

自分の内なる思い、エネルギーが、表現せずにはいられなくて外に出てしまうというもの。

内的なエネルギーの発露として、表現があると思うのです。

リアクションを期待するものは、内側にあるのもを引っ張り出す感じで、

表現せずにはいられないのは、内側からわき出てくるもの。

引っ張り出す場合は、井戸が涸れていても、何とかして、水をくみ出そうとするわけです。

方や水が湧いてきて、あふれ出すので、自然なわけです。

僕は全てに於いてそうあるといいなと思います。

無理がない。自分が苦しむことなく、それは自然に起こるわけです。

やりたくないときは、やらなくていい。

やらなければいけない理由ってなんでしょうね?

カミーノを歩いて、何だか変化があったとすれば、そういうことかな?

やりたいことは、どこからくるのか?

やらなければいけないことはなくて、それは、やらずにはいられなくて、

気がついたら、やっている。。。そうしたものが、本来のエネルギーだと思うのです。

だから、ブログも、気が向いたときだけ書く。

それがもしかしたら、すごく連続するかも知れないし、
すごくすごくパワフルなメッセージになるかもしれない。

それは、何がわき起こってくるかによります。

そうした、タイミングが誰にでもあると言うことです。

11月 14, 2010 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)