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2010年11月22日 (月)

ものに執着しないとは

物質的であるというのは、ものを持つ持たないは関係なく、
そのものに執着があるかどうかだ。

ものを持たない暮らし。
家の中がシンプルで、何にもない暮らし。

それは、ある意味で、ミニマリズムというスタイルとも言える。

もともと日本の文化・伝統にはそういう美学があって、
茶の湯のようなできるだけ質素で、シンプルなものは美しいと感じる感性がある。

でも、本当は愛着を感じるものに囲まれて暮らしたいと思うなら、
それはそれでいいと思う。

愛着なのか、執着なのかは、見極める必要がある。

ものを所有したい、ものを持ちたい時に、
そのものがどういう意味を持っているのか?が大事だ。

自分という存在を強く見せたい、権力があるように見せたい、
お金があるように見せたい、美しく見せたいなど、

そのままの、あるがままの姿ではなく、何某か他者に対して、
自分をより良く見せたいという思いばかりが拡張して、
結局、本来の自分ではない、そのままの自分には自信が無くて、
それを補うためにものによって、物質的なものによって、
自分を拡張して見せたいとするなら、それが意識的にせよ
無意識的にせよ、そうであるならよく考えてみる必要がある。

本来ならば、あるがままの自分でいいはずだ。

ただ、だからといって、おしゃれをしない、
簡素で粗末な住まいに暮らすことがいいということではない。

自分を素直に表現すること、必要以上に飾り立てることは違う。

そもそも、自分という存在は、自分という魂が選んでこの世に生まれてきた。

僕は、そう考えている。

そうならば、ここに存在すること自体が、すでに表現であり、
肉体としての存在は、もっともシンプルな表現形態となっている。

そして、自分が大好きなこと、自分が自分らしく表現することは、
この肉体としての表現の延長線上にあって、その一部と考えてもいいだろう。

ライフスタイルの中で、例えば、住まいやインテリアをどのようにしたいのか、
これも、その延長線上だ。

何を快適と思うのか・・・

湖があって、山があって、花々が咲き乱れる
そんな美しい自然の中が大好きだというなら、

それも、自分の延長線上にあるものだろう。

ファッションやインテリアを自分らしく整え、
自分らしい環境を創ることは、自分らしさの延長線上と言うことだ。

どこからが、過度なのか・・・
何が、本来の自分ではない自分を表現しているのかは、
自分が一番よく知っているはずだろう。

本来、ものへの執着がないというのは、ものを持つ持たないではなく、
ものを持つこと自体ではなく、それへの執着がないと言うこと。

こだわらないとは、
どちらでもいいということだ。

興味がないというのはわかるが、だから嫌い、
持ちたくないと言うこととは違う。

興味がないという事で、否定するとすれば、
そこにエネルギーがあるわけで、
拒否したい思いがあるわけだ。

なぜ、拒否したいのか・・・
そこを見つめてみる必要があるだろう。

あの人は、嫌いだ。
なぜ、嫌いなんだろう。

単に興味がなければ、その存在はどちらでもいい。
目の前にいても、空気みたいなものだろう・・・

自分が愛するものは、他者が見ても愛を感じるものだ。

そこに愛があるかどうかで、ものとの関係、距離を見つめてみてもいいかもしれない。

あなたの身の回りのものに、愛情は注がれていますか?

11月 22, 2010 心と体 |

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