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2011年5月29日 (日)

東日本大震災の津波被災地へ入りました。

21日にハワイから帰国して、翌日には、東京で仲間とミーティング、
その後、東北を巡った。

被災地への今後のアクションを見極めることと、
青森の六カ所村に行ってみたかったからだ。

まず、東日大震災で大きな被害を受けた東北、
僕は、ひとつ大きな勘違いをしていたようだ。
それは、仙台や盛岡などの大きな街や東北の広い範囲が、
阪神淡路大震災の時のように、地震による家屋の倒壊やダメージ、
道路などが破壊されていると思っていたからだ。

もちろん、各所そのようなところもたくさんあるのだけど、
思ったほど激しい損傷はなく、実際に、地元の人々ともお話ししたが、
震災直後は停電やガスが止まったり、ガソリンがない、食料が手に入らないなど、
揺れ続ける余震の中で、不安の中かなり大変だったと聞いた。

仙台の様子
Photo

レンタカーでずっと走ってみて、
田舎でも、家屋の倒壊やダメージを受けている様子もほとんどなく、
例年通りの田植えも終わり、ここだけを見ると何事も無かったかのように思える。

しかし、津波による被害を受けたエリアは、映像や写真で見るのと異なり、
言葉を失うような、想像を絶する光景だ。
この2ヶ月で、ガレキなど、かなり撤去されてきたようだけど、
それでも、まだまだその爪痕は大きく残っている。

初日、仙台空港周辺、閖上地区、塩釜、松島などを回り、翌日、南三陸町へ行った。

仙台市街から仙台空港へは20キロくらいあるけど、
高速道路で走ると海側の広大なエリアが田んぼや畑と郊外の家々があり、
そのエリアが一面、延々とガレキが散乱している状態。

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仙台空港の周辺も、特に海岸に近い地域は特に、家々は破壊されえぐり取られたように
家半分が無くなっていたり、異様なバランスで倒壊寸前で持ちこたえていたりと、
それ以外の家は粉々に破壊されて、すでにガレキが撤去されて、
基礎の土台だけが残っているものがほとんどだ。

これらの状況は、沿岸に近いところほど激しく、
どの地域も同じような惨状。

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翌日、南三陸町に行ったけど、ここは街が丸ごと無くなってしまいました。

山道を走って南三陸町へと入って行くと、谷間の道路にそって、
家々が点々とあるのだけれど、突然、山のようになったガレキが現れ、
最初は、驚きと共にガレキをここで処分しているのかと思ったらそうではなく、
ここまで打ち寄せられて、いまだ手つかずの状態だと言うことがわかった。

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津波が到達したところと到達しなかったところでは、
被害がまったく異なり、地震そのものによる倒壊などの被害はほとんど無かったのだということだ。
これが、直下型だった神戸の地震と大きく異なるところ。
同じ場所でも、少し高いところでギリギリ助かった家の前で、倒壊、半壊している家などがあるのだ。

街の中心部に向かって行くと、すでに多くのガレキは撤去されて、
かろうじて姿をとどめた鉄骨の構造物や鉄筋コンクリートの町営アパートなどは建物だけが残り、
頑強な堤防も一部は破壊されていた。

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その他 南三陸町の様子(2011.5.23現在)はこちらをご覧ください。

友人の親族の方がここ南三陸町にいて、自動車販売会社をしているのだが、
営業店舗が2つあり、街にあったお店と自宅は、すべて流されて、基礎を残すのみで跡形もない。

山側にあったもう一つの店舗にも水とガレキが押し寄せ、店内は泥だらけになったそうだ。
もちろん、外にあったクルマは全滅。

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お店の窓の外1メートルくらいまで津波は到達し、店内は泥だらけになったそうだ。
お店から町の方向を見る。

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このオートザムの堀内さんが町長をよく知っているということで、すぐに電話をしてくれて、
町長ともお会いしてお話を聞くことができた。
今後の僕たちが何をしなければいけないか、いろいろと情報を得ることができ、考えることができた。

佐藤町長と志津川オートザムの堀内社長
復興へ向けて、大変忙しく活躍されている

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避難所がある高台には、小規模だけど、新しい住宅があり、ここは無傷、
このエリアにボランティアセンターや仮設病院、体育館の中に役所のオフィスが置かれていた。

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いまだ身元不明の遺体も相当数安置されているようで、
誰の遺体なのかわからなかったり、確認できる方がいなかったりで、
そのまま安置されていて、DNA鑑定などで遺体の特定をするようだけど
かなり時間がかかるようです。

ここを中心に活動している神戸のNPO団体ユナイテッドアースで
友人が活動しているご縁で、ここのリーダー佐藤さんともお話をし、情報交換をした。
若者を中心にして、テントに寝泊まりしながら様々なボランティア活動をされていた。

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仲間たちと被災者の岡山への受け入れの活動を震災直後から立ち上げたが、
津波被災地エリアからはなかなか問い合わせがなく、
メルトダウンが報じられた後、福島や関東エリアを中心に自主避難の相談が多く寄せられ、
今も問い合わせが続いている。

おいでんせぇ岡山 http://www.oidense-okayama.me/

被災地では、やはり、住み慣れた地元がいいし、ふるさとに暮らしたいのは誰しも同じ。
僕たちが逆の立場ならよくわかる。

まあ、僕の場合は、放浪癖があるので、なんとも言えないのだが・・・


翌日、仙台から一関へ移動し、気仙沼に行き北上する予定だったけれど、
一関で降りたら、なんとレンタカーがすべて出払っているか、予約でいっぱいのために借りれない。
どこで借りれるかと、新幹線沿線を探すが、どこも予約なりでクルマがない。。。

結局、27日に空いているクルマがあり、それまで、この現地視察が終わってから
向かおうとしていた青森へ先に行くことにした。

青森へは、六カ所村や原子燃料サイクル施設がどんなところか知っておきたかったことと、
八戸以北の被害状況などを確認したかった。

六カ所村の話は、別で書くことにして、八戸の被害は、限定的だったようだ。。。

その後、盛岡に入り、クルマで宮古へ入った。
盛岡から宮古へは、ひたすら山間部の国道を通り約1時間半。
岩手が山の県だということがよくわかる。

盛岡の街もほとんど被害ないようで、居酒屋やバーのマスターやお客さんといろいろと話したけど
地震直後、停電するも仙台ほどひどくなかったらしく、とは言っても、30時間以上停電してたらしいが・・・

さて、宮古に入ると街は意外にも無事だった・・・
しかし、それは街の奥、つまり、山手側だったので、波が到達しなかったからだ。

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港に近づくにつれて、浸水のあとが残り、港の周辺の地域は、大きな被害があった。

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津波が押し寄せた時の映像でもあったのだけど、
漁港の施設が飲み込まれ沢山のクルマが流された場所

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港に堆く積まれたガレキ

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その近くのガソリンスタンド、当時の映像を見たら、ものすごい水量なのだけど、
場所によって、以外に倒壊を免れたものもある。

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この堤防を大きく越えて、ヘドロとともに真っ黒な津波が押し寄せた

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同じ場所でも、手前のドラッグストアは店内はすべて押し流され、破壊されているが、
その向こうに見えるアパートは見た目の被害はない。

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こちらも同様、写真では写ってないが、この右の方は家々が倒壊、
でも、ここに見えるアパートはほとんど無傷のように見える。
水の流れは大きく変化し、場所によってはこのように無事なものがある。
ここは比較的高さも高い。

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ここから南下をしはじめたのだけど、沿岸部の国道はすべて普通に通れる状況になっていて、
陸前高田までの数カ所で一部、道路が大きくえぐられた場所などがあり、仮設の道路などもあった。

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沿岸部の道を走るのはどこも同じで、クネクネと曲がり、アップダウンがある。
高い場所は当然ほとんど影響なく、低いところは壊滅的な状態。

宮古、大槌、釜石、大船渡、陸前高田と廻ったけれど、
ある程度大きな町でなくとも、沿岸部沿いには、どこにも家々があり、小さな集落もある。

そういうあまりメディアでは出てこない場所が、延々と海岸線にあって、
いまだ手つかずの場所もたくさんあるのだ。

天気がよくて、海も穏やかだったせいか、海は透明で美しく、
比較的高いエリアになると、何事もなかった美しい風光明媚なリアス式海岸沿いとなり、

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峠を過ぎると、一面激しく壊滅したままの集落が現れたりする。

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海から少し離れていても、川沿いを津波が登って破壊した場所もあり、
被害の場所も状況も一様ではない・・・

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ずっと走っていると、正直感覚がマヒしてくる。
あまりにどこまでも延々とこの状態が続くので、ある意味で目が慣れてきてしまう。

途中の名前もわからない集落は、ガレキの撤去が手つかずで、ほとんどそのままの状態。

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家の中にクルマ・・・

Photo_50


大槌では、津波の後、一部で火災があり、残った建物も燃えて鉄骨は赤さびたり、
残った部分が真っ黒になっていたりと、まるで、爆心地のような様相だった。

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ひとり骨組みだけになった建物で、灰をかたづけている女性がいて、少しお話しさせていただいた。
ここは美容室だったという。

Photo_26

地震での激しい揺れでお店の中はぐちゃぐちゃになり、
孫を迎えに、すぐに小学校に向かったそうだ。
子供の両親は、東京の方に行ってて、ご主人は、秋田におられたらしい。
津波の警報はまったくなく、すべて停電したため、情報を知る手立てがなかったそうで、
とりあえず、外に出た集落の人たちと避難場所でもある小学校に行ったそうだ。
結局そのままとどまることになり、その後津波がやってきた。

彼女のお店のエリアは、かろうじて建物が残っていたそうだけど、
その後家事が起こって、その地域は燃えてしまった。

津波は渦を巻いて建物を飲み込んでいったそうだけど、
同じ集落の中なのに、その渦の流れで、被害にも差があったようだ。

彼女は、逃げる際に、印鑑、通帳、お金をすぐにバッグに入れて、
持って出たそうで、それでも着の身着のままだったので、大変そうだ。

この地域は、一部で建設機械によるガレキの処理作業をしている方がいたが、
ほとんど人がいなかった、、、

彼女に聞くと、避難所にいてもやることがないから、
とりあえず、片付けをしていたらしい。

彼女曰く、町が今後のことを明確にしないので、この地域で商売をしている人々は、
焦り始めていると言っていた。

この地域、自分の土地でそのままやれるなら、
すぐにでも何らかのかたちで再スタートへ向かいたいそうだけど、
集落をどうするか、明確にならないらしい。。。

山手側を削って場所をつくることが検討されているそうだけど、簡単にはいかないようだ。

各所、集落のあるところは、かならず、機動隊のバスやなんらか警察の車両が配置されていた。

大きな町は、つねにパトカーが数台巡回していて、
神奈川県警とか秋田県警とか、県外の応援のパトカーがほとんどだ。

また、釜石も、大船渡も、一部信号自体が破壊され機能していないので、
大きな交差点では、警察が交通整理していた。

大船渡の港湾エリアには、ビジネスホテルやパチンコ屋さん、飲食店などがたくさんあって、
繁華街として、街の中心部だったのだろうけど、激しく損傷し、
いまだガレキがそのままになっていた。破壊された高さを見上げると
どれだけ大きな波だったかがわかる。
周囲には、未だに、磯臭さと魚の腐敗臭が残っていた。。。

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もっともショックを受けたのは、この日最後に訪ねた陸前高田だ。

広く開けた広大なエリアがまるごと押し流され、一部鉄筋コンクリートの建物が残っているだけで、
一面、住宅やスーパー、コンビニ、ガソリンスタンド、ドラッグストア・・・
普通の街が、丸ごとなくなった。。。倒壊を免れた鉄筋コンクリートの5階建てのアパートの
破壊状況を見れば、どれだけの高さの津波が街を襲ったかがわかる。。。

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津波の直後は、一面ガレキの山で、無くなられた方も相当数いた・・・
ここだけでも数千人の方が無くなられただろう。

地盤沈下も激しく、1.5メートルくらい地盤が下がっているそうだ。
だから、潮の満ち引きで海水面がほとんど地面と一緒になる・・・

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少し山側に行けば、このように無傷だ。。。

Photo_40

こうして現地に入ったわけだけど、写真で見るように破壊はすさまじいものだ。
ガレキの処理も進み、わずか2ヶ月半でここまで片付けられている
復旧のスピードには驚かされる。街も再開され、道路もきれいになっていて、
破壊された場所を見なければ、何事も無かったかのようにも見える。

でも、ここでは数多くの命が失われた。。。
亡くなられた方には、改めてご冥福をお祈りしたい。

そして、避難所には、まだ数多くの方々が避難を余儀なくされている。
地域をどう再生していくのか、各地を訪ねながら僕自身考えたけれど、
課題が多すぎて、簡単にこうすればいいと言う方法が見えない。
いつかまた、津波はやってくる。そのために、同じ場所で街づくり、地域作りはできないからだ。

今回は、今後の動きを検討するための情報収集で現地に入り、足早に沿岸地域をまわったけれど、
いろいろなことがわかったし、肌で状況、感覚を掴むことができた。
映像や写真ではこの感覚はつかめない。
地域の温度感や臭い、音、空気。。。
特に、その場に包まれることで、見えてくる、感じられる感覚というものがある。

被災地に行くことをためらっている人もいる。
遠慮している人も多い。
行くなら何かボランティアをしなくてはという人もいるだろう。

不用意に現地に入ることはどうかとも思うが、
現地に入って、現地の状況を知りたいと思う方は、ぜひ現地に足を運んで、
この現実を体感すればいいと思う。

そして、この災害のことを多くの人に語って欲しい。
メディアの温度は、時間が経つにつれ、急激に被災地の露出は少なくなってくる。

震災直後は、入ることも不可能だったし、何よりも人命救助や緊急で対応しなくてはいけないことのためにプロフェッショナル以外の立ち入りは制限されるべきだった。
二次災害の怖れもあった・・・

いまでも、まだまだ災害処理のためにトラックやダンプ、工事車両などが多く、
そのため作業のじゃまにならないように、行動を心がける必要はあるけれど、
この状況をどこかの段階で、見ると言うことはとても大事だと考えている。

そして、余力があるなら、ぜひ、積極的に、どんなカタチでもいいから、
現地での被災者支援のボランティアにも参加するといいと思う。
割はいろいろ。。。人生の学びも大きい。役

僕も、来月改めて、現場での支援活動に入れればと思っている。。。

5月 29, 2011 東日本大震災 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年5月18日 (水)

ホオポノポノのKRさんのボディワーク

いま、コナの友達の家に滞在中。
昨日、ホオポノポノのKR女史のボディワークを受けてきた。
ワイキキからほど近いジャングルのご自宅で。本当にジャングルだった・・・笑 

ホオポノポノを知ってる人は、KRさんのことはご存じだろう。
ご縁あって、彼女のボディワークを受けることができた。

2匹の犬と笑顔で迎えてくれたKRさんは、とてもフレンドリーで、自然体の穏やかな方。
1匹の犬が、マスチフの1歳の子供なんだけど、うちの犬の倍以上あって
じゃれてくるけど危険危険!・・・笑 絡んでくると重い重い!

カミさんも一緒に行って施術していただいたけど、
とても心地よいハワイの伝統的なマッサージだった。

施術中にKRさんといろいろとお話ができて、ホオポノポノについて、
自分なりによく理解することができた。

彼女のボディワークと普通の伝統マッサージの大きな違いは、
彼女の意識が、常にクリーニングを意識していることだ。

ホオポノポノの4つの言葉

ごめんなさい
許してください
ありがとう
愛しています

そして、とても効果的なクリーニングの言葉

アイスブルー

これを心の中でマントラのように唱えたり、意識しながら施術する。

もっとも、KRさんの場合、もう、クリーニングが染みこんでいるので、
無意識レベルでクリーニング状態だから、
施術中に会話してても、フォーカスは変わらない。

とっても気さくで優しく、オープンマインド、
イージーゴーイングで、典型的なハワイに暮らす雰囲気の方

出身は、カリフォルニアで、ルーツはユーゴスラビアだそうだけど、
カリフォルニアもそうしたオープンな文化的風土があるから、
そうしたDNAがもともとあるのだろう。

いつも思うことだけど、メディアを通じて知る世界と現実の世界にはギャップもある。

僕もいつも自分をリセットするのだけれど、ついつい特別にものごとも見てしまう。
それは、人間が生きるための、選別、選択、そして、優先順位をつける生存本能に由来する。

KRさんは、3月に岡山に講演に来る予定だったので、
友人が主催する会に参加する予定だった。

しかし、大震災のために、日本での講演会は中止になり、
それで、今回ハワイに来ることになったので、友達を通じてご紹介いただいた。

本も読んで素晴らしかったので、どんな方だろうととても興味深かったのだ。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

僕たちは、自分が知りたい世界、見たい世界だけを勝手に選択して見てる。
現実を前にしても、その人が見たい世界、知りたい世界しか見えないものだ。

その昔、ハワイ島にキャプテン・クックが来たとき、
ハワイの人々は、大きな船に、白い帆、見たこともない白人金髪の
彼らのその容姿や訪れたタイミングなどから、
伝説の神々がやってきたと思い、島を挙げて歓待した。
そして、手厚くもてなして、いろんなものを献上して、クック一行は出発した。

彼らは、その後嵐に遭い、マストが折れ、命からがら船を修理するために戻ってきた。

その姿を見た島の人々は驚き、そこに彼らの真実の姿を見て、
神々ではなかったと理解した彼らは、クック一行に怒りをあらわにして、
ついには、クックたちを殺してしまった。

詳細は正確ではないが、まあ、こんな話だ。

自分が信じている世界でしか、物事を受け入れないし、理解しない。
話がちょっとずれてるようだけど。。。せっかくハワイ島にいるので。。。

KRさんについても、僕の個人的な見え方として、特別な方ではない。

それは、僕はとてもいい意味で言っているわけだけど、
多くの人は、何かを、誰かを、特別のもの、特別の人だと信じたいし、そうあって欲しい。

なぜなら、自分で真実を調べ、真実を知るということは、とても大変なことだったりするわけで、
ブランドがあったり、太鼓判があったり、世間に認められている人だったりすると、
対してなにも調べもせずに、思いこみで、その発言や表現を信じてしまう。

さらに、自分が見たいものしか見ないわけだから、
真実からずれる人は、どんどんずれていくわけだ。

特別であることをうまく利用すれば、お金儲けもうまくできる。
それが悪いわけじゃない。

センス(感性)や好み、個性の問題だ。

常に、真実はどこにあるのかを意識することは、とても大事だと思う。

大切なことは、その人にとって、その人の人生、生のテーマ、
生きる目的にとって真実であるかどうか。

本当は、どのように生きたいのか、どんな人生を送りたいのか、
そのために“生”の全てがある。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

KRさんを通じて感じたホオポノポノは、なるほど、そうだったのかということ。

これは、あくまでも、僕の個人的な体験、感想だから、そう理解して欲しいけど、
ハワイ伝統のホオポノポノは特別な魔法でも、祈りの方法ではないと思う。

ハワイにまだ西欧の影響がなかった時代。
本土のネイティブアメリカン同様、小さなコミュニティ(共同体)がいくつもあり、
それらが緩やかにまとまって、ハワイで生きる人々がいた。

時に、コミュニティ同士、つまり、小さな部族同士の争いもあった。

コミュニティで生きるには、大切な約束がある。
それは、他人とうまく折り合って、生きていく方法だ。
それが、人生を安全なものとし、楽しく快適にして、豊かにしてくれる。

そこに生まれたのが、ホオポノポノなのだろう。

よく考えてみれば、当たり前のことだ。

他人との意見の違いやトラブルが起きたら、状況を受け入れ、理解して、
まず、謝る→ごめんなさい。

そして、許しを請う→許してください。

許してくれたら、感謝する。→ありがとう。

お互いの共存のために、そして、お互いの思いやりの証に、友愛を表現する。
→愛しています。

こうして、コミュニティは安定して、平和になる。

そういう意味では、ホオポノポノは、コミュニティの中で生きていく上で、大切な知恵と言える。
これが、親から子へ、子から孫へと受け継がれ、伝統的な文化となっていった。

原始的な共同体では、長老や族長が、陽である表の存在なら、
シャーマン(呪術師)が共同体を導く陰の存在だ。

そして、あの世とこの世をつなぐシャーマンは、共同体にとってとても大切な存在。

そんなシャーマンは、スピリットとつながり、祖先とつながって、
共同体を維持するための重要な掟、ルールを文化的な遺産として受け継ぎ、
人々を啓蒙する役目も持っていた。

だから、現在に残るホオポノポノの伝承者は、やはりハワイの伝統の中にある
霊的(スピリチュアル)な存在ということになるのだろう。

特に、ホオポノポノで強調される、クリーニングはとてもいい方法だと思う。

身の回りを清潔に衛生的に保つことは健康の第一条件だし、
体内の毒素を排出すること、不要なものを身につけないこともそうだ。

同様に、心の中の不要なもの、不要な思い、不要な記憶、不要な感情を手放し、
いつも自分らしく快適にいることは、心の健康を保つ上でも基本となる。

KRさんに聞いたけれど、いわゆる、クリーニングと言うことと
クリアリング(浄化)、リリース(手放す)は同じ意味だと。

ホオポノポノでなければいけないのではなく、
大事なことは、不必要なものは、もたないこと。

なぜ、それを必要としているのかを見つめて、
必要ないとわかればすぐに手放す。

モノも、感情も、思いも・・・

僕という人間が、身勝手な人間に見える人もいるかもしれない。

自由な人間に見える人もいるかもしれない。

いろんな見方がある。

その見方は、自分の心を反映している。

それは、あなたが感じる感情すべてだ。

何に喜びを感じ、何に幸せを感じるのか?

何に怖れを抱き、何に怒りやいらだちを覚えるのか?

僕は、いつも自分を見つめることを意識している。。。

Kr


5月 18, 2011 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月12日 (木)

本当に必要なものは何?

僕の20代前半はいわゆるバブルだった。

70年の大阪万博で戦後が終わり、本格的な高度経済成長へと向かう。

子供の頃から経済成長の極みを体験した世代。そこにはいつも未来があった。

そして、思春期の80年代、もはや戦後はなく。

社会人となった90年代、一番多感なときに、バブルを経験した。

でも、バブル期、本当の意味で、経済的、物質的な豊かさを享受した人はほんのわずかで、

多くの人々は、確かに、その上澄みを味わい、栄華の雰囲気に酔いしれた。

そして、バブルが崩壊。

2000年になって、まさに2001年9.11で世界は変わった。

2008年サブプライムによる経済クラッシュ、続くリーマンショックで、

100年に一度の未曾有の大不況と言われた。

よく考えてみると、確かに大局的な経済は、大きなダメージを受けた。

でも、何が未曾有だったのか。。。

本当に生活が苦しい局面を迎えた人はどのくらいいたのだろう。

生活の苦しさとは、どの程度のことを言うのだろう。

生きることの苦しさは、人それぞれに価値観が異なるので見方も変わる。

贅を尽くした生活に酔いしれる人で、その豊かさにしがみつく人は、

ほんの少しの損失でも、パニックになるかもしれない。

もともと物質的な価値に囚われていない人は、大きな影響を受けないかも知れない。

結局、僕たちは、いまだバブルの中にいるだろう。幻想と言ってもいいかもしれない。

もともと今日のような経済的な発展は、少し方向が間違っていたと思う。

江戸時代は豊かだったそうだ。鎖国の中で、完全な循環型社会ができていた。

僕たちの心の中に生まれる満たされない欲求を補うために、

自分の外に何かを創り出し、それによって、足りないものを補おうとする。

それは、ちょっとしたニーズ(必要性)から、さらなる欲求に変わり、そして、欲望へと変わる。

欲望は、怖れを原因とする。無ければ困る、無ければ損害を被ることからの怖れだ。

欲望という幻想に取り憑かれ、あることが当たり前になると、ある事への感謝を忘れる。

これまでなんでもなかった豊かさは、いま、こうして、あったのだと思い出す。

ありがたいことを思い出すのだ。

もし、あることへの感謝の気持ちがいつもあるなら、あるだけで幸せだ。

では、いまの生活から何を減らしても、あると感じ、思えるのか?

最後は、生活に必要なものをバックパックにつめて、身軽な人生へと旅立てるのか?

究極的には、肉体をも脱ぎ捨てるのだ。

いま、自分の豊かさの基準を見つめ直す時だろう。

そして、あるということへの感謝をもう一度、自分へ問い直す。

無くてもよかったものって、たくさんある。

あると便利、でもなくてもいいもの。

本当に必要なものは何?

不必要なものは手放そう、不必要な思いを手放し、さなぎを抜け出して、自由へと飛び立とう。

全ては心の中で起こる感情のニーズ。

あなたは、これからどんな選択をするのだろう・・・

5月 12, 2011 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 5日 (木)

ベストゲームの創始者 ノリ・ハドルさんのインタビュー

ベストゲームの創始者 ノリ・ハドルさん 
(インタビュー・文:きくち ゆみ)

 日本の環境問題や消費者問題に長く携わっている人の中にはノリ・ハドルさんを知っている人は、かなりいると思う。経済急成長と公害問題の真っ只中の1970年代、彼女は日本に4年間滞在して「夢の島」「希望との旅」「サバイバル││The Best Game on Earth」などの著作を日本語と英語で同時出版した。ノリは、当時の日本の環境運動や消費者運動、平和運動などに少なからぬ影響を与えた人であり、今これらの運動で重要な役割を担っている人たちの中には、彼女と親交がある人も多い。

 日本で彼女を一躍有名にしたのは、その東京での質素な暮らしぶりだった(当時、1ヶ月あたり100ドル程度で生活していたそう。そのうち70ドルが家賃だったので、食費・光熱費・雑費全てを合わせて月30ドル、一日1ドルしか使ってなかった。当時は1ドル=300円だったが、それでも質素な暮らしだ)。文藝春秋に「一日300円の東京生活」という記事が載ると、日本中のあらゆる新聞や雑誌から彼女へのインタビューや原稿依頼が殺到した。日本がアメリカに追いつけ追い越せと驚異的な経済成長を遂げ、大量生産・大量消費文明へとまっしぐらに進むさなかのことだ。
 これらのインタビューや記事の中で、ノリは「どうかアメリカの悪いところは真似しないで。民主主義はいいけれど、大量消費文明はだめです。日本人の中には簡素の美という、シンプルなものを美しいと思う素晴らしい感性があります。これを世界に伝えてください」というメッセージを発しつづけた。しかし、その努力は「大海の中の一滴の水のようだった」と彼女は振り返る。その後日本が向かった進路を変えることはなかった。
 幼い頃から平和な世界の実現を夢見てきたノリは、大学に入るとロシア語を勉強し、「米国の敵」「悪魔」と言われていたソビエト人たちとの交流を始める。やがて、元核兵器エンジニアで、旧ソビエト連邦の国連代表部にいたユリ・アンティポフと出会い、現在ノリが世界中に広めている「ベストゲーム」の着想を得る。ベストゲームにはゴールとルールがある。この夏、このベストゲームの手法と、日本でベストセラーになった「世界がもし100人の村だったら」「バタフライーもし地球が蝶になったら」(7月7日、八月書館発売)の2冊の本を使って、全国10ヶ所でワークショップが開催される。来日を目前にして、彼女の抱負を聞いてみた。

――ノリは日本がベストゲームを成功させるのに、大変重要な(Criticalという言葉を彼女は使う)役割を担っている、っていつも言っているけれど、それはどうしてですか?
「もちろん、どの国の人もそれぞれ大切です。でも、日本人は特に大きな力を発揮できると思っています。日本人はほんの100年前まで、海外からの輸入もなしに、信じられないような完全循環型の持続可能な社会を実現していました。確かにその頃は民主主義はなかったかもしれませんが、すべての資源を大切にし、何もかもリサイクルしていて、しかも高度な文化、高い教育水準なども達成していました。こういう国は他にはありません。その後100年間で、何もかも西洋の真似をして経済・技術大国になりました。アメリカに次ぐ経済大国ということは、それだけ沢山の資源も消費しているということで、環境問題への責任は重大です。
 私は日本人がかつて持っていた、そして今も心の中に持っているはずの簡素さの中に優雅さや美しさを感じることができる感性が、今ほど必要とされているときはない思っています。このことは、私が1970年代に滞在したときにも言いつづけてきたことですが、今でも私が日本人に言いたいことは、ほとんどこれに尽きます。環境のことを考えれば、消費文明が限界にきていることは、明白です。みんながアメリカ人のような暮らしをしたら、地球がいくつあっても足りません。私たちは大きな方向転換をしない限り、人類だけではなくほかの生命も道連れにして、破局へと向かってしまうでしょう。この方向転換の大きな鍵を握っているのが、私は日本人だと思っているのです。」

――それで、この夏、日本でワークショップをやるのですね。
 「そうです。これまで私は英語圏を中心にベストゲームを伝えてきましたが、西洋人に伝えるとき、彼らは哲学としてはベストゲームを理解するのですが、なかなか実際の生活が変わらないのです。頭ではわかっても、体と心でわからない、というか・・。シンプルに生きることがどんなに美しく、優雅であるか、ものを持たないことがどんなに自由であるかを、実体験したことがないと、それは難しいのかもしれません。
 今回、日本では10ヶ所でワークショップを開催しますが、その中でできれば、海外、特に“発展過剰”の国々に出ていって、日本人の持っている簡素美の感性を伝えてもらえる仲間を発見したいと思っています。もちろん、すでにシンプルな暮らしをしている人も歓迎ですが、これからしようとしている人も歓迎です。大きな変化をもたらすことができるのは、むしろ後者でしょう。日本で自給暮らしをしながら、いろいろな活動をしている人―ゆみ、あなたもそうですが―や、ボランティア活動や環境問題などで素晴らしいい活躍をされている人たちを講師に向かえてのワークです。」

――ええ、松本英揮さんのお話は私も楽しみにしています。彼は映写機とスライドを担いで今ヨーロッパ講演旅行をしていますから、さらにパワーアップして戻ってくるでしょう。それから、阪神大震災や地雷撤去などで素晴らしい仕事をされている山田和尚さん、くまの元気広場の中川一郎さん、地球村の上村雄彦さんや小浜由美子さんが、講師として加わってくれる予定です。
 今回は、池田香代子さんがマガジンハウスから出版して、話題になっている「世界がもし100人の村だったら」をテキストに使いますが、それはどうしてですか?
 「あの文章は、インターネットを通じてかなり長い間出回っているもので、私自身あのオリジナルバージョンと思われるものや、いろいろな変化が加えられたものを、何度となくこの何年かの間に受け取っています。それが9-11のテロ事件をきっかけに、また何人もの友人から回ってきました。日本でもそうだったようですね。あれが日本で絵本となってベストセラーになったと聞いたときは、とてもうれしかったです。あのメッセージに共感した人、心を揺さぶられた人がそれだけ沢山いる、ということですからね。
 私はあの統計の数字の中に、人類が向かうべき方向のヒントが隠されていると考えています。そして、効果的に方向を変える力があり、しかもその責任をより多く負っているのが、今一番沢山消費している人たち――つまり、まずは私たちアメリカ人、次いで日本人です。私自身は1970年代と殆ど変わらない生活をしていて、今でも自分の生活に使うお金は年間3000ドル(40万円)を越えることはまずありません。プロジェクトにはもちろん、もっと沢山のお金を使いますが、食費や光熱費など私自身が使うお金は、非常に少ないものです。私は自分の心身の健康に保つことには熱心で、そのために必要なものには投資しますが、それ以外のものには殆どお金を使うことはありません。残念ながら、私の質素な暮らしをうらやましがるアメリカ人は少なくて、多くの人が私のように暮らすには至っていません。でも、9-11以降、アメリカ人はもっと精神的豊かさに目覚めなくてはいけない、とか、今のアメリカが世界中から嫌われるのも当然だ、と発言する人たちが増えてきました。これはいい兆候です。
 日本でこのワークショップをやり、日本人のベストゲームのプレイヤーを見つけて、その人たちと一緒に来年はアメリカで日米合同のワークショップをやりたいです。今回のワークに参加した方から、来年のワークショップの参加者を募る予定です。」

――なるほど、来年はアメリカでやるのですね。それは楽しみだな。今回の日本のワークには、どんな人に特に参加して欲しいですか?
 「興味を持ってくれた人ならどなたでも歓迎です。ただ、ベストゲームのゴールに共感してくれる人、「世界がもし100人の村だったら」を読んで、何かしたい、このままではいけない、と感じた人なら、よりワークショップが有意義になることでしょう。私は、ベストゲームが上手くいくには、ありとあらゆる人――今はこのゴールやルールを聞いたとたんに背を向ける人や、馬鹿にする人なども――が大切なことを知っています。大切じゃない人は一人もいません。ベストゲームのゴールやルールを読んで、違和感を持つひとこそ、新しいヒントや見方をもたらしてくれ、それゆえ、私たちが成長するきっかけを与えてくれる人かもしれません。そういう意味で、どなたでも歓迎します。といっても、ワークショップの定員は100人なので、申し込み順で締め切ることになりますが。でも、今回のワークショップは日本で第1回目、と位置付けていて、これからも毎年継続していくつもりでいます。」

――今回ワークショップのもう一冊のテキストとして使う「バタフライ」について、話してくれますか?
 「この物語は1990年のアースデイに米国で出版されたものです。芋虫がさなぎから蝶に生まれ変わるときに起こっていることを科学的に学んだときに、その変容の仕方があまりにも自分の体験と似ていたので、これを人類の変容に例えてあの物語を書きました。最初に出版したときは、ベストゲームのゴール到達の期限を2000年と定めていたのですが、残念ながら2000年までに大きな変容は起きませんでした。でもその準備はすでに始まっていて、今私がやっていることは――これを読んでいるみなさんも、おそらくそうですが――まさに世界中の新しい考えを持った人たち、新しい生き方を求める人たちを、どんどんつないでいるのです。平和で持続可能な社会を創ろうとしている人たちを国境を越えてつなげば、いつか戦争のない世界を実現するのも夢ではないでしょう。
 この本はアメリカでじわじわと売れていましたが、9-11の事件の後、海外からも注文が来て、よく売れるようになりました。これは興味深い現象です。人々の意識は急速に変化してきていて、みんな、誰もが共感できる美しいストーリーを求めているようです。
 今世界中に広く行き渡っているストーリーは、あいつは悪いやつだから、やつが攻めてくる前に殺してしまえ、とか、十分な食べ物や資源がないから、できるだけこの村に沢山ためこもう、それで他の村で誰が死のうと関係ない、というかなり醜い物語です。
 しかし本当は、賢く分配して大切に使えば、資源も食べ物も十分にあるし、悪いやつ、嫌なやつ、というのは、実は自分の影でしかありません。私たちは違いに学び、違いを喜び、違う人や嫌いな人を受け入れて、協力していく術を身につけなくてはいけません。多様であればあるほど、協力したときに強いチームになれることを学ばなくてはなりません。人類というチームが生き残るために――もし、みなさんが本気で生き残ろうとお考えなら――新しい物語が必要です。
 今回出版される日本語版「バタフライーもし地球が蝶になったら」は、オリジナルの「バタフライ」の物語に、日本人の若いアーティストの林良樹&菜穂による新しい絵が描かれ、私とゆみの個人的な変容や奇跡の物語を加えたものです。十分な時間がなかったので出版社が見つからず、ゆみと玄が二人で自費出版することになりましたが、きっと、これでかえってよかったのだと思います。本当にこの物語を理解し、一緒に夢を描きながら行動していく人に、手から手へと渡される本になるでしょう。一緒に協力すれば、ひとりではできないことができるのです」

――ええ、私も本を自分で出版するのは、初めてなのですごく勉強になっています。こんなにお金がかかるのか、とちょっとびっくりもしています。本を作って売って、それで生活をしている方、とくに小さい出版社の方々の苦労がわかり、彼らの地道な仕事振りに改めて尊敬の念を抱くようになりました。私もいろいろな仕事をやってきましたが、自分でプロデュースするのが一番おもしろいですね。ノリには、そんなチャンスを与えてもらって、本当に感謝しています。
 「とんでもない。ゆみと玄が破産しないように、この夏日本にいったら、一生懸命宣伝しますからね」

――はい、よろしくお願いします。どうもありがとうございました。         ●

■ノリ・ハドル プロフィール
二〇一二年までに世界中に平和・健康・豊かさ・公正を実現することをゴールとした「ベストゲーム」の考案者・創始者。米国のNPO「新安全保障センター」プレジデント。人類社会の変革を描いた大人の絵本「バタフライ」(日本語版は7月7日発売予定)は九月一一日の事件以降、米国で静かなブームとなっている。7カ国語を話し、世界中に友人がいる。軍備による安全保障ではなく、真摯な外交によるグローバル安全保障を提唱し、日本がその重要な役割を担うことを確信している。 
■英語URL:http://www.bestgame.org

原文はこちらから引用→http://amanakuni.net/Namaenonai-shinbun/Namae113-yumi.html

5月 5, 2011 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 4日 (水)

作家・高村香さん NHKニュースウォッチ9で「それでも原発を使うのか、それこそ私たちの選択にかかってると・・・」

チェルノブイリ以降、原発を徹底的に取材し、そのもろさや原発をめぐる社会のひずみというものを問いかけてきた作家、高村香さんのNHK・ニュースウォッチ9大越キャスターのインタビューです。
NHKの主要なニュース番組での高村さんの発言の意義は大きい!
こちらで見れます。

NHK・ニュースウォッチ9
http://cgi2.nhk.or.jp/nw9/pickup/index.cgi?date=110503_1

以下、主要部分の内容です。


ナレーター:高村さんは、今こそ、原発を進めるか否かの判断に必要なデータがあると指摘しています。

高村薫:この地震国で原子力発電をするときのコストを、もう一度冷静に計算し直してみる必要が絶対にあると思います、それは例えば、耐震化工事にかかる費用、あるいは、こういう事故が万一起こったときのいろんな補償とか賠償とかの費用、その上で、私たちが、それでも原発を使うのか、それこそ私たちの選択にかかってるんだと思うんですね。

ナレーター:最終的な選択をするのは、私たち自身だという高村さん。
日本のエネルギー政策や暮らしのあり方が問われていると考えています。

高村薫:私たちが今できるのは、逃れられない現実に耐えて、見つめ続けるか、あるいは、目をそらして、無かったことにするか、逃げるかなんですね。私は、逃げてはならないと思います。現実に、福島で生まれ育った土地、仕事も、家も子供もある土地を追われて、現実に、今日も、明日も逃げて行かなくてはならない生き方がある。それをなかったことにして、時間が経てば、元通りになるという根拠はどこにもない。

大越キャスター:これだけの事があっても、今の豊かな電力供給を原発が担っている以上、何気にそれに乗って生きていく道を無意識に選択している人も多いですよね。

高村薫:これまでと同じ様に生きるという選択肢はないんだという風に思っています。
私自身は、今すぐには無理ですれども、10年とかというスパンを考えた時には、日本は、原発から脱却をして、次のエネルギー社会に進んで行くべきだと思います。
原子力発電という技術を否定するものではありませんけれども、日本は、地震国なので、無理だと、そういう理由です。

5月 4, 2011 経済・政治・国際 | | コメント (0) | トラックバック (0)