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2011年5月29日 (日)

東日本大震災の津波被災地へ入りました。

21日にハワイから帰国して、翌日には、東京で仲間とミーティング、
その後、東北を巡った。

被災地への今後のアクションを見極めることと、
青森の六カ所村に行ってみたかったからだ。

まず、東日大震災で大きな被害を受けた東北、
僕は、ひとつ大きな勘違いをしていたようだ。
それは、仙台や盛岡などの大きな街や東北の広い範囲が、
阪神淡路大震災の時のように、地震による家屋の倒壊やダメージ、
道路などが破壊されていると思っていたからだ。

もちろん、各所そのようなところもたくさんあるのだけど、
思ったほど激しい損傷はなく、実際に、地元の人々ともお話ししたが、
震災直後は停電やガスが止まったり、ガソリンがない、食料が手に入らないなど、
揺れ続ける余震の中で、不安の中かなり大変だったと聞いた。

仙台の様子
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レンタカーでずっと走ってみて、
田舎でも、家屋の倒壊やダメージを受けている様子もほとんどなく、
例年通りの田植えも終わり、ここだけを見ると何事も無かったかのように思える。

しかし、津波による被害を受けたエリアは、映像や写真で見るのと異なり、
言葉を失うような、想像を絶する光景だ。
この2ヶ月で、ガレキなど、かなり撤去されてきたようだけど、
それでも、まだまだその爪痕は大きく残っている。

初日、仙台空港周辺、閖上地区、塩釜、松島などを回り、翌日、南三陸町へ行った。

仙台市街から仙台空港へは20キロくらいあるけど、
高速道路で走ると海側の広大なエリアが田んぼや畑と郊外の家々があり、
そのエリアが一面、延々とガレキが散乱している状態。

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仙台空港の周辺も、特に海岸に近い地域は特に、家々は破壊されえぐり取られたように
家半分が無くなっていたり、異様なバランスで倒壊寸前で持ちこたえていたりと、
それ以外の家は粉々に破壊されて、すでにガレキが撤去されて、
基礎の土台だけが残っているものがほとんどだ。

これらの状況は、沿岸に近いところほど激しく、
どの地域も同じような惨状。

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翌日、南三陸町に行ったけど、ここは街が丸ごと無くなってしまいました。

山道を走って南三陸町へと入って行くと、谷間の道路にそって、
家々が点々とあるのだけれど、突然、山のようになったガレキが現れ、
最初は、驚きと共にガレキをここで処分しているのかと思ったらそうではなく、
ここまで打ち寄せられて、いまだ手つかずの状態だと言うことがわかった。

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津波が到達したところと到達しなかったところでは、
被害がまったく異なり、地震そのものによる倒壊などの被害はほとんど無かったのだということだ。
これが、直下型だった神戸の地震と大きく異なるところ。
同じ場所でも、少し高いところでギリギリ助かった家の前で、倒壊、半壊している家などがあるのだ。

街の中心部に向かって行くと、すでに多くのガレキは撤去されて、
かろうじて姿をとどめた鉄骨の構造物や鉄筋コンクリートの町営アパートなどは建物だけが残り、
頑強な堤防も一部は破壊されていた。

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その他 南三陸町の様子(2011.5.23現在)はこちらをご覧ください。

友人の親族の方がここ南三陸町にいて、自動車販売会社をしているのだが、
営業店舗が2つあり、街にあったお店と自宅は、すべて流されて、基礎を残すのみで跡形もない。

山側にあったもう一つの店舗にも水とガレキが押し寄せ、店内は泥だらけになったそうだ。
もちろん、外にあったクルマは全滅。

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お店の窓の外1メートルくらいまで津波は到達し、店内は泥だらけになったそうだ。
お店から町の方向を見る。

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このオートザムの堀内さんが町長をよく知っているということで、すぐに電話をしてくれて、
町長ともお会いしてお話を聞くことができた。
今後の僕たちが何をしなければいけないか、いろいろと情報を得ることができ、考えることができた。

佐藤町長と志津川オートザムの堀内社長
復興へ向けて、大変忙しく活躍されている

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避難所がある高台には、小規模だけど、新しい住宅があり、ここは無傷、
このエリアにボランティアセンターや仮設病院、体育館の中に役所のオフィスが置かれていた。

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いまだ身元不明の遺体も相当数安置されているようで、
誰の遺体なのかわからなかったり、確認できる方がいなかったりで、
そのまま安置されていて、DNA鑑定などで遺体の特定をするようだけど
かなり時間がかかるようです。

ここを中心に活動している神戸のNPO団体ユナイテッドアースで
友人が活動しているご縁で、ここのリーダー佐藤さんともお話をし、情報交換をした。
若者を中心にして、テントに寝泊まりしながら様々なボランティア活動をされていた。

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仲間たちと被災者の岡山への受け入れの活動を震災直後から立ち上げたが、
津波被災地エリアからはなかなか問い合わせがなく、
メルトダウンが報じられた後、福島や関東エリアを中心に自主避難の相談が多く寄せられ、
今も問い合わせが続いている。

おいでんせぇ岡山 http://www.oidense-okayama.me/

被災地では、やはり、住み慣れた地元がいいし、ふるさとに暮らしたいのは誰しも同じ。
僕たちが逆の立場ならよくわかる。

まあ、僕の場合は、放浪癖があるので、なんとも言えないのだが・・・


翌日、仙台から一関へ移動し、気仙沼に行き北上する予定だったけれど、
一関で降りたら、なんとレンタカーがすべて出払っているか、予約でいっぱいのために借りれない。
どこで借りれるかと、新幹線沿線を探すが、どこも予約なりでクルマがない。。。

結局、27日に空いているクルマがあり、それまで、この現地視察が終わってから
向かおうとしていた青森へ先に行くことにした。

青森へは、六カ所村や原子燃料サイクル施設がどんなところか知っておきたかったことと、
八戸以北の被害状況などを確認したかった。

六カ所村の話は、別で書くことにして、八戸の被害は、限定的だったようだ。。。

その後、盛岡に入り、クルマで宮古へ入った。
盛岡から宮古へは、ひたすら山間部の国道を通り約1時間半。
岩手が山の県だということがよくわかる。

盛岡の街もほとんど被害ないようで、居酒屋やバーのマスターやお客さんといろいろと話したけど
地震直後、停電するも仙台ほどひどくなかったらしく、とは言っても、30時間以上停電してたらしいが・・・

さて、宮古に入ると街は意外にも無事だった・・・
しかし、それは街の奥、つまり、山手側だったので、波が到達しなかったからだ。

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港に近づくにつれて、浸水のあとが残り、港の周辺の地域は、大きな被害があった。

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津波が押し寄せた時の映像でもあったのだけど、
漁港の施設が飲み込まれ沢山のクルマが流された場所

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港に堆く積まれたガレキ

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その近くのガソリンスタンド、当時の映像を見たら、ものすごい水量なのだけど、
場所によって、以外に倒壊を免れたものもある。

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この堤防を大きく越えて、ヘドロとともに真っ黒な津波が押し寄せた

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同じ場所でも、手前のドラッグストアは店内はすべて押し流され、破壊されているが、
その向こうに見えるアパートは見た目の被害はない。

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こちらも同様、写真では写ってないが、この右の方は家々が倒壊、
でも、ここに見えるアパートはほとんど無傷のように見える。
水の流れは大きく変化し、場所によってはこのように無事なものがある。
ここは比較的高さも高い。

Photo_22

ここから南下をしはじめたのだけど、沿岸部の国道はすべて普通に通れる状況になっていて、
陸前高田までの数カ所で一部、道路が大きくえぐられた場所などがあり、仮設の道路などもあった。

Photo_23

沿岸部の道を走るのはどこも同じで、クネクネと曲がり、アップダウンがある。
高い場所は当然ほとんど影響なく、低いところは壊滅的な状態。

宮古、大槌、釜石、大船渡、陸前高田と廻ったけれど、
ある程度大きな町でなくとも、沿岸部沿いには、どこにも家々があり、小さな集落もある。

そういうあまりメディアでは出てこない場所が、延々と海岸線にあって、
いまだ手つかずの場所もたくさんあるのだ。

天気がよくて、海も穏やかだったせいか、海は透明で美しく、
比較的高いエリアになると、何事もなかった美しい風光明媚なリアス式海岸沿いとなり、

Photo_53

峠を過ぎると、一面激しく壊滅したままの集落が現れたりする。

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海から少し離れていても、川沿いを津波が登って破壊した場所もあり、
被害の場所も状況も一様ではない・・・

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ずっと走っていると、正直感覚がマヒしてくる。
あまりにどこまでも延々とこの状態が続くので、ある意味で目が慣れてきてしまう。

途中の名前もわからない集落は、ガレキの撤去が手つかずで、ほとんどそのままの状態。

Photo_44

家の中にクルマ・・・

Photo_50


大槌では、津波の後、一部で火災があり、残った建物も燃えて鉄骨は赤さびたり、
残った部分が真っ黒になっていたりと、まるで、爆心地のような様相だった。

Photo_25

ひとり骨組みだけになった建物で、灰をかたづけている女性がいて、少しお話しさせていただいた。
ここは美容室だったという。

Photo_26

地震での激しい揺れでお店の中はぐちゃぐちゃになり、
孫を迎えに、すぐに小学校に向かったそうだ。
子供の両親は、東京の方に行ってて、ご主人は、秋田におられたらしい。
津波の警報はまったくなく、すべて停電したため、情報を知る手立てがなかったそうで、
とりあえず、外に出た集落の人たちと避難場所でもある小学校に行ったそうだ。
結局そのままとどまることになり、その後津波がやってきた。

彼女のお店のエリアは、かろうじて建物が残っていたそうだけど、
その後家事が起こって、その地域は燃えてしまった。

津波は渦を巻いて建物を飲み込んでいったそうだけど、
同じ集落の中なのに、その渦の流れで、被害にも差があったようだ。

彼女は、逃げる際に、印鑑、通帳、お金をすぐにバッグに入れて、
持って出たそうで、それでも着の身着のままだったので、大変そうだ。

この地域は、一部で建設機械によるガレキの処理作業をしている方がいたが、
ほとんど人がいなかった、、、

彼女に聞くと、避難所にいてもやることがないから、
とりあえず、片付けをしていたらしい。

彼女曰く、町が今後のことを明確にしないので、この地域で商売をしている人々は、
焦り始めていると言っていた。

この地域、自分の土地でそのままやれるなら、
すぐにでも何らかのかたちで再スタートへ向かいたいそうだけど、
集落をどうするか、明確にならないらしい。。。

山手側を削って場所をつくることが検討されているそうだけど、簡単にはいかないようだ。

各所、集落のあるところは、かならず、機動隊のバスやなんらか警察の車両が配置されていた。

大きな町は、つねにパトカーが数台巡回していて、
神奈川県警とか秋田県警とか、県外の応援のパトカーがほとんどだ。

また、釜石も、大船渡も、一部信号自体が破壊され機能していないので、
大きな交差点では、警察が交通整理していた。

大船渡の港湾エリアには、ビジネスホテルやパチンコ屋さん、飲食店などがたくさんあって、
繁華街として、街の中心部だったのだろうけど、激しく損傷し、
いまだガレキがそのままになっていた。破壊された高さを見上げると
どれだけ大きな波だったかがわかる。
周囲には、未だに、磯臭さと魚の腐敗臭が残っていた。。。

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もっともショックを受けたのは、この日最後に訪ねた陸前高田だ。

広く開けた広大なエリアがまるごと押し流され、一部鉄筋コンクリートの建物が残っているだけで、
一面、住宅やスーパー、コンビニ、ガソリンスタンド、ドラッグストア・・・
普通の街が、丸ごとなくなった。。。倒壊を免れた鉄筋コンクリートの5階建てのアパートの
破壊状況を見れば、どれだけの高さの津波が街を襲ったかがわかる。。。

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津波の直後は、一面ガレキの山で、無くなられた方も相当数いた・・・
ここだけでも数千人の方が無くなられただろう。

地盤沈下も激しく、1.5メートルくらい地盤が下がっているそうだ。
だから、潮の満ち引きで海水面がほとんど地面と一緒になる・・・

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少し山側に行けば、このように無傷だ。。。

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こうして現地に入ったわけだけど、写真で見るように破壊はすさまじいものだ。
ガレキの処理も進み、わずか2ヶ月半でここまで片付けられている
復旧のスピードには驚かされる。街も再開され、道路もきれいになっていて、
破壊された場所を見なければ、何事も無かったかのようにも見える。

でも、ここでは数多くの命が失われた。。。
亡くなられた方には、改めてご冥福をお祈りしたい。

そして、避難所には、まだ数多くの方々が避難を余儀なくされている。
地域をどう再生していくのか、各地を訪ねながら僕自身考えたけれど、
課題が多すぎて、簡単にこうすればいいと言う方法が見えない。
いつかまた、津波はやってくる。そのために、同じ場所で街づくり、地域作りはできないからだ。

今回は、今後の動きを検討するための情報収集で現地に入り、足早に沿岸地域をまわったけれど、
いろいろなことがわかったし、肌で状況、感覚を掴むことができた。
映像や写真ではこの感覚はつかめない。
地域の温度感や臭い、音、空気。。。
特に、その場に包まれることで、見えてくる、感じられる感覚というものがある。

被災地に行くことをためらっている人もいる。
遠慮している人も多い。
行くなら何かボランティアをしなくてはという人もいるだろう。

不用意に現地に入ることはどうかとも思うが、
現地に入って、現地の状況を知りたいと思う方は、ぜひ現地に足を運んで、
この現実を体感すればいいと思う。

そして、この災害のことを多くの人に語って欲しい。
メディアの温度は、時間が経つにつれ、急激に被災地の露出は少なくなってくる。

震災直後は、入ることも不可能だったし、何よりも人命救助や緊急で対応しなくてはいけないことのためにプロフェッショナル以外の立ち入りは制限されるべきだった。
二次災害の怖れもあった・・・

いまでも、まだまだ災害処理のためにトラックやダンプ、工事車両などが多く、
そのため作業のじゃまにならないように、行動を心がける必要はあるけれど、
この状況をどこかの段階で、見ると言うことはとても大事だと考えている。

そして、余力があるなら、ぜひ、積極的に、どんなカタチでもいいから、
現地での被災者支援のボランティアにも参加するといいと思う。
割はいろいろ。。。人生の学びも大きい。役

僕も、来月改めて、現場での支援活動に入れればと思っている。。。

5月 29, 2011 東日本大震災 |

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コメント

Ribinへ

お疲れ様、相変わらずフットワークが軽くていいね。
現地で肌感覚で感じ取った全てが貴重な財産。
今、日本は戦略の窓が世界に開かれている。
だけどこの窓は多分あと数ヶ月しか開いていない。
このタイミングを逃すと、世界から忘れさられる。
ここで如何にアクションに移していくか、
イニシアティブを実行できるかが境目になると思う。
それぞれが今できることを全力で粛々とこなしていこう。
Takuya 拝

投稿: Takuya | 2011/06/01 7:47:22

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