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2011年6月 4日 (土)

愛を越えて

マザー・テレサは愛を体現した人。

マザーは何しろ有名だから、マザーのことを語ってしまうけど、
人知れず、愛そのものの人もたくさんいる。

マザーは、愛の反対とは何かを問いかけた。

愛の反対。。。多くの人が、憎しみとか、怒りとか答える人もいる。

戦争を例に取れば、破壊的な戦いに対して、怒りや憎しみ、悲しみ、怖れを覚える。
身近な人が殺されたら、殺した相手を憎むだろう、怒りも覚えるだろう。。。
だからといって、愛の反対が憎しみや怒りではない。

マザーは、愛の反対は、無関心だって言ってる。
僕なりにそれはわかる。。。

僕なりの愛の理解・・・それは、僕が思ってる考え方だけど。。。
愛って、接着剤みたいなもんだなって思ってる。

それは、つながりってこと・・・

愛について、よく考えてみて欲しい。
彼氏、彼女の恋愛。子供を愛する。地域を愛する。
全部つながりなんだ。。。

このつながりの力が消えるとき、愛が消えるってこと。

つまり、愛って実は、燃えさかる愛だけが愛じゃない。
愛は、消えるか消えないか。。。ものすごくギリギリまで愛の力って作用してる・・・

最後の最後で愛のエネルギーが希薄になり、フッと愛が見えなくなって、
その関係が終わる。。。

そして、無関心が訪れる。。。

関心がない=無関心

関心って、心を関係づけること、つまり、つながり。
つながりが消える、無くなることが無関心。
怒りや憎しみって、実はまだ愛がある、つながりが、、、
もう、相手のことがどうでもよくなったら、怒りもないし、どうでもよくなる。。。

でも、相手に謝って欲しい、自分の事をわかって欲しいって思いが残ってるから、
相手に期待があって、もしかしたら期待するような関係をもう一度手にできるかも知れない、
自分が’期待するものをもらえるかも知れない・・・なのにもらえないから許せないわけです。

満たしてくれるはずの相手が、自分の思いを満たしてくれない・・・
そこに期待を裏切られた思いが、許せないって気持ちになる。

結局、まだ気持ちがつながってるわけです。
だから、どうしてもそこに期待があって、怒りや憎しみが収まらない。

まだ、接着剤、つながりとしての愛があるから。。。

例えば、カラダってのは、愛でできていると思うわけです。
なぜなら、細胞と細胞は細胞壁でくっついてる。

もし、カラダに、っていうか、この60兆個の細胞をつなぎ止める力がなくなったら、
カラダは崩壊する。。。

このつなぎ止める力こそ愛って事。。。

そう考えると、僕たちは愛の塊なんです。

この4次元の時空間に物質化する力は、本質的にはすべて愛でなりたってる。
本来は、この世界にいること自体、生きてること自体が愛の体現であり、愛に満たされた海に生きる魚のようなもの。
だから、愛が無くなるということは本来無く、愛がない状態になること自体が不可能ということ。

ただ、そういう状態にあることを忘れてしまうこと、忘れてしまっていることはあるんだと。
そういう理解を思い出せば、本来、誰しもが持っている愛そのものを思いだし、表現すればいい。

この僕たちが生きる世界である4次元(たて、よこ、高さで空間ができて、それに時間を加えたら4次元)
愛がないとこの次元時空間自体が存在できなくなるわけです。

ここに意識が加わると5次元で、この意識が加わった5次元とは、
時間は長く感じたり、楽しい時はあっという間に過ぎてしまったりするわけですが、
これこそが意識が4次元空間への認識を変化させるということです。

5次元世界に至ると、愛を越える世界になる。
5次元世界は愛を越えて、もう物質的な世界ではないわけです。

物質に執着しないという感覚、モノを所有しないという感覚も5次元意識に近い。
もの=物質的なところに執着するのは、3次元的な囚われ。
時間が生じて4次元になると、仏陀が無常と言ったように、
時間が経てば、朽ち果てたり、変化していくわけで、物質や人間関係もずっと同じ状態のものなどないわけで、
3次元的なところに執着する必要はないわけです。

そして、いま、僕たちは、4次元的世界から5次元的な世界へと移行しつつあるんだと思ってます。
世の中のそうした世相を見ればよくわかります。

愛がいらない世界ではなく、愛を越えて行く世界へと、時代は変化している。
愛を越える世界とは、自分自身の平和や喜びの世界を体現していくこと。

愛というのは、実はとても人間的で、人間=愛なのかもしれない。
人間は、宇宙の愛を体現する存在で、それ以上の肉体を持たないエネルギー存在は愛を越えた意識存在なのだろうと考える。

彼らにとって、愛というのは特別なものではないから、愛について語ることはないのかもしれない。

彼らがいつも感じ、思うのは、自分が、そこに喜びを感じるかどうか。。。
そこには、罪悪感という感覚もないし、怒りや怖れ、悲しみもない。

ただ、喜びや平和がある。その先に悟りがある。。。

愛は、宇宙からしてみれば究極ではなく、僕たちから見れば悟りがひとつの究極のステージだけど、
僕は、もっとさらにさらに、深い精神意識の領域があると思っている。
それは、人間の知性では理解できないし、表現もできない世界だけど、きっとあると思う。

だけど、そのゴールは、いまの人間である僕たちには、必要のない世界。

いまは、人間として、愛を体現し、表現して、愛を越えて、
喜びを生きる世界へと進化していくのだ。

6月 4, 2011 心と体 |

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コメント

>愛というのは、実はとても人間的で、人間=愛なのかもしれない。

>彼らにとって、愛というのは特別なものではないから、愛について語ることはないのかもしれない。

>そこには、罪悪感という感覚もないし、怒りや怖れ、悲しみもない。

>僕は、もっとさらにさらに、深い精神意識の領域があると思っている。それは、人間の知性では理解できないし、表現もできない世界だけど、きっとあると思う。

>だけど、そのゴールは、いまの人間である僕たちには、必要のない世界。

>いまは、人間として、愛を体現し、表現して、愛を越えて、喜びを生きる世界へと進化していくのだ。

はじめまして^^
「>」じんじんきました^^ありがとうございます↑

「人間=愛」ここはとても新鮮でした^^↑
愛は、ただのきれいごとではなく
そうだなぁ、肉体に感じるぬくもりのように
現実的な世界に流れている波長のようなもの
憎しみにも、怒りにも、感情のすべてに流れている無音のメロディかな^^

知性は囲いを作りたがる
自分の庭先に真実を作りたがる
そこを離脱できたとき
生身として存在していること
生きていること
条件ではなく「そのもの」が悦びであると知るのでしょう^^↑

庭先(思考)を持てるのも
制限を受けている「今」だからこそ^^↑
その庭先があればこそ「人肌のぬくもり」を味わえる♪

ありがとうございます^^↑
細胞が緩みました^^↑

投稿: 左眼さん | 2011/06/08 11:09:05

はじめまして。
そんな風に考えたこと無かったです、目からウロコです。
私も愛について考えてみたくなりました。

投稿: 堀ゆ | 2011/06/08 11:22:12

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