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2011年10月28日 (金)

カラダのおもむくままに走る

9月から走り始めたRUNは、いつの間にか走らないと気持ち悪くなってきた。
習慣化してきたってことか。。。。

たぶん、RUNも中毒があるんだと思う。。。

適度な距離を走ると、何とも言えない快感があって、
いわゆる、ランナーズハイだね。。。脳内物質エンドルフィンが出るんだ。。。

昔、あれほど、走るのがいやだった僕も、コツを得た。
何がいやだったかがわかった。

それは。。。

1.走り出すとしんどい。。。当たり前。。。笑
2.足がだるくなる。

この二点が基本的にRUNができない、また、続けられない二大要素のような気がする。

1.走り出すとしんどい・・・は、ゆっくりスタートすることで解決できる。
僕は、昔は、いきなり走り始めてた。
すると心拍数がどんどん上がるので、それがしんどいわけ。

今はどうしてるかというと、気分が乗るまで、どこまでも歩く。
次第にからだが軽いジョギング状態になってきて、RUNへと移行する。

だから、時には2キロも走り出さないときがあるし、調子がよければ数百メートルで走り出す。
走り出すと行っても、ウォーキングを早めていって、次第に軽い軽いジョギングにする。
もう意識してゆっくり走る。後は、カラダに任せて自然にペースを上げたり下げたり。

要するに、心拍数が変化していくときが一番しんどい。
そこを徐々に上げていけば、なんてことない。

走り続けても、心拍数が110~115くらいなら、そのままずっと走り続けられる。
さすがに、130以上になると酸欠になって、呼吸も荒くなるからしんどくなる。


次にしんどいのは足。

これは意外に簡単で、徐々に距離を伸ばすしかない。
要するに、筋肉ができてないから。いきなり無理すると間接も痛めるし、
ゆっくりゆっくりやればいい・・・

僕のRUNは気まぐれを大切にしたい。走りたいときに走るだけ。
気持ちに正直に生きる。走ることに何の責務もないのだ。
走りたいから走っている。この感覚がなくなったら、走るのをやめるべきだ。

自分が気持ちよくなるために走るのであって、健康のためにとか、
ダイエットのためになんてことになると、義務感が生じたり、もうちょっと頑張ろうなんてことになる。

もちろん、それもモチベーションのためにはいいのだろうけど、
僕にはそういうのが合わなくて、本当に適当じゃなきゃだめだ。

適当というのは、でたらめってことじゃない。

いい頃合いであり、いい感じというのが本来のところ、そういう意味で使ってる。


僕は、いつも自分に問いかける。

どう?どんな感じ?歩く?やめる?行けそう?もう少し走るか。。。

自分の中にコーチがいる。
自分の体調に聞くことが最良のコーチだ。

自分は、すべて知っているのだから・・・

僕は走りながら、いろんなもの、いろんなことを発見する。
いま、僕が住んでるところは3歳から住んでいる田舎だ。
だけど、近所をいろんなところを走り回って、意外に知らなかったところ、風景に出くわす。
もちろん、昔からはずいぶん変わったけれど。。。

見たことがあっても、クルマがないとどうにもならない地域だから、
すーっと通り過ぎているのだ。

でも、走ると違う。歩くともっと違う。

あ~こんなとこあったんだ。。。。

人と出会う。田舎だからと言うわけではないけど、
平日の午前中に、いい歳ぶっこいた中年が走ってる。
仕事は?休みか?あまり見ない顔だ。。。

うちから数キロ離れると僕のことなんか知るわけがない。。。田舎でも。。。

そんな中を若作りのおっさんが走る。。。笑

僕は歩きたくなったら歩く、いい景色なら、止まって写真を撮る。
Twitterもする。

いいんだ、それで。

全部自分の喜びのためなんだから。

自分が一番気持ちいいところで生きる。
それが宇宙が計画したところ。。。いつも平和で、喜びある状態とは?
そこに意識を向けながら、人それぞれに、平和と喜びを感じることだけ。。。

それ以外はもう人々は受け入れられなくなっていく。。。

自由とは?愛とは?

自分が一番快適と感じる人生を・・・
自分が生きていい。

それを生きることに罪悪感を覚える必要は無いし、
本当に好きに生きていい。

でも、罪悪感を感じるなら、やめておいた方がいい。。。。

自分が一番快適な状態にいること。リラックスして、平和であること。喜びがあること。

水が高きから低きに流れるように、自然に、あるがままに。。。


Run


10月 28, 2011 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年10月27日 (木)

個の時代を超えていくと言うこと

これからの時代に起ころうとしていることは、みんなの意識が拡張して、
共有感が増していくと言うこと。

個を満足させる時代は終わり、個を超えたつながりの中に自分の喜びを見出す。

自分だけが満足するのではなく、他者とその満足や喜びを分かち合うことで、
その喜びは何倍にもなる。

そうした共有感のようなものに価値感がシフトしていく。

一人勝ちや他を圧倒したり、自分だけ所有することへの孤立感を感じ、
持てるものを共有財産として、例えば財団が保有するように、
健全なカタチでその多くを手放す資産家も現れると思われる。

いずれにしても、個に向かった時代は終わり、シェアの時代に移行しているのだ。

インターネットは特にその意味深い象徴であり、
FacebookやTwitterはまさにその現れだろう。

共感によるつながりは、Facebookのいいね!に表れているように、
いいと思う共感のエネルギー。

そして、その共感度が高まれば、それは愛の広がりにも等しいもの。

深いつながりは、自分と他者との境界が希薄になり、所有感もなくなる。
同時に、他者の喜びは素直に自分の喜びとも感じられるようになる。

そうなれば、どんな感じかと言えば、
例えば、料理をするときに10分間で仕上げる場合、
段取りよく一通りの作業をこなさなければいけない。

フライパンに火をかけて、タマネギをスライスするのはまずい。
順番通り仕上げていく。

その10分間の行程毎を、同じところから撮影した1枚づつの写真にして眺めると、
キッチンの中を右へ左へと動き、作業するあなたがいる。

できあがった料理は、このあなたの作業が一つに結実したものだ。

いまのあなたは、一人であり、できあがった料理はひとつであって、
行程毎に作業したあなたや材料ではない。

先ほどの行程の写真のあなたをそれぞれ違う人物にする。
そうすると料理を仕上げるというひとつのテーマ。思い。
考えをもったそれぞれの人が何も言わずに協力し合い、
一つのゴールへと向かうことになる。

これからの世界はこのようなもので、できあがった料理はここだけをみると、
料理を作った課程は見えない。

でも、それぞれの行程でいろんな人が関わってひとつのゴールを創造したと比喩的にみると
シフトする世界というのは、自分という意識を分散して作業しながら
ゴールに向かう料理の行程の中で、実は、すべては自分一人でつくっているんだ。
みんな同じ意識を共有しているんだということが見えてくる。

なんだか、難しい話になっちゃったなぁ〜。。。笑

10月 27, 2011 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月25日 (火)

男が書いたノート

男は人生に何かを見出そうと探していたわけではなく、
ただ自分の求めるままに、何となく考え、思いにふけっていました。

思いにふけっていると、何がしかイメージがわいてきて、
それをノートに書き込んでいました。

書き込もうとしても、思い浮かばなければペンを置き、ノートを閉じました。

気がつくといろんなことがそこには書かれていました。
読み返してみると、自分が書いたようにも思えるし、
自分が書いたように思えない言葉、メッセージの数々。

そこには、とてもほっとする言葉がたくさんちりばめられ、
そんな生き方ができれば、心から安心できて幸せになり、
豊かな人生を味わえる、そんな気持ちになりました。

でも、男が暮らしている小さな田舎町では、
そんな生き方をしている人は周りにはどこにもいないように思えました。

男はそれからも小さな田舎町で暮らし、
気が向いたらノートにメッセージを書いていました。
それは、誰のためでもなく、自分のためでもなく、
ただ、書くことは男の癒しにつながっていたようです。

それからずいぶんと年月が経ちました。
人々の暮らしぶりも豊かになり、平和で幸せな町へと変わっていきました。

この小さな田舎町に、最近、ちまたで有名な講演家がやってくるというので、
仲間たちに誘われて、彼も楽しみに聞きに行きました。

このような講演家が小さな田舎町にやってくることはめったにないので、
多くの人が集まっていました。

講演家はさすがにいろんな町で講演しているだけあって、実に話が上手です。
町の人はみんな講演家の話に聞き入りました。

気がつくと、どこかで聞いたことのあるような話がいくつも出てきます。
さて、どこで聞いた話だろう。

講演の後で、男は仲間や町の人と話をしました。
すると仲間たちも町の人も口々に話すのです。

「実は、今日の話、どこかで聞いたことがある話だったんだけど
どこで聞いたかわからないんだ。。。
何だか言い方違うんだが、でも、知ってるんだ。。。」

男は驚きながら、自分もそう思ったと話しました。

翌日、男はいつものように、ふと思いたってペンを取りノートを開きました。

何気に以前書いたところを開いてみると、はたと気がつきました。
昨日講演家が話した言葉を見つけたからです。

ページをめくってみました。
次のページをめくりました。

驚いたことに、そこかしこに、あの講演家の言葉がちりばめられていたのです。

男はノートを持って、仲間の家に行きました。
仲間の家に行く途中で、町の人があちらこちらで集まって何やらわいわい話しています。

何を話しているのかと近寄ってみると、みんなノートを持ち寄り、
お互いに見せ合って、この言葉だ、あの言葉だと話し合っているのです。

ノートはみんなそれぞれですが、男のノートと書いていることは同じようなものです。

講演家の話を聞かなかった人も、その不思議な出来事の話をそばで聞きながら、
うんうんとうなずき、いい話だ、いい話だと耳を傾け、
最近よくそう思ってたんだと目をまん丸にさせています。

みんな誰かに見せるわけじゃないから、ただ、思いつきを書いてただけだと
このノートの意味を深く感じることなく、
ただただ、自分の思いつくままにペンを持ったと言うのです。

男だけではなかったのです。

思い返せば、この数年間、町の様子は一変しました。

男は思い出しました。

以前は殺伐として何の変化もなく、未来への希望すら忘れ去ってしまった町のようでしたが、
男がノートに思いつきを書き始めた頃から町は次第に変化し始めていたこと。

そして、男の人生も、思いつく言葉を書き始めてからより豊かに、
安心で、幸せな暮らしに変わって行ったことを思い出したのです。

仲間や町の人に聞いてみると、ノートに言葉を書き出した人は、
男よりもずっと前から書いていた人もいました。
最近、書き始めた人もいました。

書き始めた時はそれぞれですが、みんな似たような言葉を書き、思いを持っていました。
不思議なものです。

あの講演家はなぜここに来たんだろう?と男は思いました。
彼も、ノートに書いていたんだろうか・・・
みんなのノートに彼の言葉が書いてあったのです。
でも、誰もそれに気づくことがありませんでした。

男は無駄なことを考えるのをやめました。
どうあれ、いま、男は満足していたからです。

人々の暮らしは、人生は、いつしか豊かで幸せなものとなり、
そこには、平和と喜びがありました。

みんな心の中に、平和と喜びを見出していたのです。

男も、町の人も、みんなそれからもノートへ思いついたことを書きました。

気の向くままに、気が向いたときに。。。


10月 25, 2011 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月15日 (土)

宇宙の真実を探求するわけ

宇宙の真実を探求する理由。。。

それは、人間として、生命として生まれ持った性(さが)だろう・・・

結局のところ、僕たちは、ひたすらに、
僕たちにしてみれば永遠というに等しい、
宇宙の根源へと還る道を歩いているのだろう。

その道は、あまりに遠くて考えることすら無意味に等しい・・・

それは、僕たちがバクテリアやプランクトンのような
小さな生物だった頃の魂を思い出せないように、

この先何億年という進化の中で、意識的な変容と進化を遂げた僕たちは、
いつしか人間という生命体だったことも忘れてしまうかも知れない。

遙かに進化した生命体、意識的な存在にとって、
僕たちのような肉体を持った存在として生きることは、
あまりに制約が多い。

しかし、肉体的、物質的な制約があるからこそ、
可能になることで、生命の本質や生の本質を理解できることもある。

最新鋭の戦闘機に素人が乗っても、一寸たりとも動かすことができないように、
それを動かすには、高度な理解と訓練が必要だ。

それができない僕たちには、地上でルールのある道を
自転車かオートマチックの普通のクルマで走るのが適当だろう。

永遠にも等しいゴール。宇宙の根源へと還る道すらわからないのに、
魂のコンパスはいつもゴールへと向いている。

自分に設定したナビは、いつもそこへと向かっているのだ。

それは、誰が設定したわけでもない。
自分自身が設定したものであり、それ以外には設定できないナビゲーションだ。

僕たちは、何もしなくてもそこへと誘われる。(いざなわれる)

途中、どんなに寄り道をしても、結局は、そこへと向かうのだ。

言い換えれば、地球上をいくら好きなところに旅しても、
地球は太陽の周りをまわり、太陽系は銀河系の中をまわり、
銀河系は大いなる宇宙を移動している。

僕たちは、地球ごと移動し、一秒たりとも同じところに留まってはいない。

その行き着く先は、究極のゴールだ。

いま、世界は生まれ変わるステージにいる。
それは、生まれ変わって、また、同じ世界を繰り返すのではない。
大いなるシフトの時。

それは世界を見ればわかるはずだ。
でも、その現実を認めたくない人は見ないだろう。
そこに感心のない人もいるだろう。
それはそれでいい・・・

ただ、これから起こることはみんな避けられない。

それは、オズの魔法使いでドロシーとトトが体験したことと同じ。

魔法の国に飛ばされたドロシーとトトが、
オズに会いに、黄色いレンガの道をエメラルドシティへと向かう途中で、
道は3方向に分岐する。

そこに案山子(かかし)がいて、あっちこっちと指さしてる。

どっちに行っていいかわからないドロシーは、
案山子にどっちに行っていいかわからないって言うと、
案山子は、どの道おなじだからという・・・

そう、黄色いレンガの道はどれもエメラルドシティにつながっている。

僕たちは、これと同じような分岐点に来ているのだろう。

どの道を進んでも、結果、究極の宇宙の根源へと向かう。

ただ、その道のり、プロセスはそれぞれに異なるのだ。

果たして、どんな旅がしたいだろう・・・

この先の世界は、あなたが体験したい旅を、体験したい世界を提供してくれる。

どの道に進んでも大丈夫。

あなたが楽しみたい世界に進めばいい。

大切なのは、どんな世界を楽しみたいのか・・・

自分の真実に正直に生きること。。。

そのズレがあればあるだけ、道のりは少し厳しいものになるかもしれない。。。
それを選ぶのも悪くはないけれど・・・

10月 15, 2011 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 7日 (金)

アラン・コーエンセミナー最高に充実した時間だった・・・

アランのセミナーが終わり、アランとの3日間は、とびきり充実したものとなった。

一昨日のイブニングセミナー、昨日は1日セミナー、
そして、今日午前中は、アランのスピボイインタビューだった。

最後に、アランとパートナーのディー、そして、今回、一緒にイベントを主催した
ダイナビジョンの百合香さんを空港に送り届けイベントは終わった。

主催者として、イベントの成功は大変充実したものとなったし、
参加者の方々からも大変満足したという声を聞き、
再びアランのセミナーに参加したいとの声も多く聞くことができた。

多くの人が、今回のセミナーをきっかけに、
人生の新しい一歩を踏み出すことにもなったと思う。

自分自身、自分の人生を見つめ直すこともでき、
新たなビジョンも描くことができた。

多くの友人も駆けつけ、参加してくれて、一緒に充実した時間を過ごすこともできたし、
何よりも、アランとの友情を深めることもできた。

昔、アランに言ったことがある。

「アランは、僕のマスターだ・・・」

アランは言った。
「Robin、僕は君のマスターじゃないよ。君のマスターは、君自身なんだ・・・」

この言葉は、僕のマインドセットを変え、その後の僕の人生をも変える言葉となった。

それでもやっぱり、アランは、僕の先生だ。

僕は、アラン・コーエンではないので、アランの同じような人生を生きることは望まないし、
そんな人生を生きることはできないけれど、

アランの生き方や哲学には、深く深く共感するし、
おこがましく聞こえるかも知れないけど、アランと同じように、
深く、心の平安の中に生きることができると信じている。

それは、僕だけじゃなく、全ての人がそうだ。
それぞれの最高の個性、その人の中で・・・

誰かに憧れることもいい。でも、その憧れは共感であり、
その感性を理解することができることは、
実は、自分自身がすでにそこにいると言うことだ。

アランが言う、魔法のマジックテープの原理だ。

感性で共感したものが、いまの自分ではないとしても、
それは、いつかそのようになる。

自分が望みさえすれば・・・

自分はどうしたいのか、どんな人生を送りたいのか。
自分の魂に真剣に問いかけてみれば、きっと魂は、その奥底から答えてくれる。

アランと久しぶりに会って、自分という魂のギターのチューニングができた。

自分が、自分であること。
自分らしく、自分の生きたい人生を生きる。

その時、最高の人生という音楽を奏でることができるのだ。

いま、イベントが終わって、心地よい疲れの中で、ゆっくりと充実感を味わっている。。。

参加された皆さん、ありがとうございました!

そして、協力してくれたスタッフの皆さん、お疲れ様でした&いつもありがとう!

また、開催できる日を楽しみに。。。

10月 7, 2011 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)