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2012年5月31日 (木)

批難しても自分は変わらない・・・

誰かを批難したくなるのは仕方の無いことかも知れない。

とても残念だけれど、ほとんどの人はいまだ達観しているわけではないのだ。

この世界に生きる人々の多くが、当然ながらネガティブな感情を持ち合わせている・・・

もちろん、僕もそうだ。

うっかりネガティブサイドに落ちて、批判のエネルギーがわき起こったりする。

でも、そうしたエネルギーがふっと上がってくると、
できる限り、自分を見つめる。なぜ、批判的なんだろうと。。。

誰かを、何かを批難したくなったら、一呼吸置いて、考えてみるのだ。

何が気に入らないのか? 何に不快を感じているのか?
何がために、自分はこんな気持ち、こんな気分になっているのか?
それが自分にどのような影響を与えているのか?
などなど・・・

誰か、何かを批難するというのは、それが自分よりもパワーを持っていると感じているからだろう。

自分よりも強い、何がしかの力を持っていて、それにはかなわないと感じている。
または、自分の力が及ばないところにあって、どうすることもできない。
それをどうにもコントロールできないもどかしさから、言葉によって批難する。
そうでなければ、暴力によって訴えるか。。。

例えば、政治や企業、または、著名人など、自分が直接関わりを持てないものに対して、
批難のエネルギーが出て来るのは、自分のコントロールが及ばないと感じているからだろう。
ましてや、暴力に訴えるわけにはいかない。

批難することで、共感者、同意者が現れると力が湧くし、
自分だけではなく、同じ考えや感覚を持った人が現れると自信がつく。
認められた感覚になる。

でも、問題は、なぜそのように感じているのかが重要だ。

批難したくなる感情の源泉とは?

人であれ、組織であれ、何であれ、
そこに、自分の中で満たされていないものが湧き上がる。

自分にはないのに、相手にある。
自分は持っていない、満たされてないのに、その人は持っている、満たされている。
その人は得している。自分は、得してないから=損をしている。
何であいつが、何であんなものが。。。

自分は上手くいってないのに、自分は正直にやっているのに。
これまでまじめにやってきて損をした。
世の中、上手くやったやつが結局得をする。

そんな思いが渦巻いたりする。

でも、それはすべて自分の心の中で起こっていること。

人なり、会社なり、世界なりに、自分の満たされていない部分が刺激されて、
そこに自分のネガティブな感情を投影してしまう。

その嫌な気持ちを払拭したい。取り去りたいために、批難する。
批難することで、その人、そのものよりも、上位に立ち、蔑む(さげすむ)ことで、
自分には価値がないと思い込んでいることへの傷つき体験をやわらげ、癒すことができる。

それによって傷つかなくていいし、相手を自分より低くみることで
自分を浮上させる。価値があると自分に言いたい、感じたいわけだ。

その人がそうなのは、その人の事情があり、状況がある。
その状況を知ること、理解することは難しいかもしれない。

相手に何があって、どんな状況なのか?
それが故に、そのようなことになっているわけだ。

誰かを、何かを批難する。
それは、自分の状況を自分で処理しきれないときに起こる。

批難や批判をするしないは、自分次第だけれど、
それによって傷つくのも自分だ。

批難しても、自分の状況は変わらない。
批難してネガティブなエネルギーが内に湧く方が体にも、心にも害がある。

批難したい感情、批判したい気持ちがわき上がってきたら、
そこに事情、状況があるということ

なぜ、自分は感情的になっているのか?
なぜ、批難したいのか?
自分はどういう結果を得られたら満足なのか?

そうした気持ちで自分を見つめてみれば、ネガティブな気持ちから少しでも開放され、
よりポジティブで、クリエイティブに問題を解決するイメージや表現が思いつくだろう。

相手や環境よりも自分が弱い存在だと思うところからの批難から、

自分は本来力強い存在で、相手を受け入れ、理解することができる。
出来事には事情や状況があって、思いやり、愛から見つめてみるとどうなのか
しっかりと考えて、それでも批難したいのかを
自分に問いかけてみるゆとりは欲しいものだと思う。

そうは言っても、僕もいろんな感情がわき起こる。

だからこそ、こんな視点を大切にしたいといつも思っている。。。

Hawaii_rainbow


5月 31, 2012 心と体 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2012年5月14日 (月)

人生を楽しむと言うこと《アランの本から抜粋》

自分が選んだ日数の休暇を取りましょう。
裸になって洗濯をしましょう。
何もしなくても、自分の価値をしっかりと感じてください。
奔放なセックスをし、しかも、スピリチュアルでいてください。
誰がそうしなくても、自分は自分を愛し、敬意をはらいましょう。
自分の子供が舌にピアスをしたり、お尻に刺青をしていても、
幸福でクリエイティブな大人に成長していくのを見つめていてください。
かつて罪の意識を感じた体験の中にも、祝福を見いだしてください。
そして、あなたがこの世を去ろうと決めるその時まで、
体の機能をよくしておいてください。
このうちいくつかでも、すべてでも、望みすぎたと思うなら、
あなたはまだ、あなたの外の誰かや何かが、あなたの人生に
糸をつけて引っ張り回していると思っているのです。
自分で選択して、完全燃焼して生きるというのでなければ、
それは望みが少なすぎるというものです。
真の強さとは、自らの強さを捨ててしまった人たちの中にいても、
自分の強さを保ち続けることにあります。
ほとんどの人々は、与えられたものを手にし、それが運命だと思ってしまいます。
偉大な魂は、与えられたものを手にし、自らの運命をつくりあげていくものです。

すでに持っているものから、望むものを創り出してください。


あなたが、自分の力をどれだけ他人に渡してしまったとしても、
それを取り戻すまで、ゲームは終わりません。
このゲームは、急速な死を迎えるものではなく、
急速な生を得るものなのです。

一見、人々は死ぬまで生きてるように見えますが、
実は、生きるようになるまで死んでいるのです。
どれだけの道のりを旅したとしても、
どんなに試練があったとしても、
どんな間違いを犯してしまったとしても、
あなたはそれらのすべてを黄金に変えることができるのです。
あなたが通り抜けてきたことのすべては、
目覚めるために仕掛けられたものなのです。
あなたがどれほど素晴らしいかを神様が思い出させてくれるのを、
死ぬまで待つことはありません。
今、自分自身に思い出させてください。
そして、あなたは人生というゲームを楽しむのです。


『今日から人生が変わる スピリチュアル・レッスン』
アラン・コーエン 
牧野・M・美枝訳
ダイヤモンド社刊より

5月 14, 2012 心と体 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年5月12日 (土)

小さき舟

そして今日旅立ちの時が来た。

大海原に漕ぎだし、あの大地に行くのだ。

帰ってきたものはいない。

たどり着いたのか、海の藻屑と消えたのか。
誰もわからない。

ただ、今日約束の時間となった。

私を送る者はわずか。
旅立つことを知らぬ者も多く、期待する者も少ない。

時が満ちれば、みんな旅立ちの時を迎える。
それは、死ではない。

もう、そこにはいられないのだ。

この大地で暮らした思い出が蘇り、同時に、これからの船出への不安もよぎる。
なぜ、漕ぎ出さなければいけないのか。
そんな疑問など、持つ者はいない。
それは、逃れることができないものだから、受け入れるしかないのだ。

この大地で暮らす者は皆、いつの日か旅立つ日を思いながら生きる。

だから、この大地での日々を大切に生きるのだ。


さあ、小さき舟は海へと漕ぎ出した。

岸から離れるに従い不安は拡がる。

不安と怖れで押しつぶされそうになる。
それでもひたすら漕ぎ続ける。

もう、あの大地も見ることはできない。
もう戻る道はないのだ。

じっとしていても、漂い続けるだけだ。
漕ぎ続けるしかない。

辺りには何も無い。あるのは水平線だけ。
ただ、信じてこぎ続ける。
果たしてどれだけ漕ぎ続けるのかはわからない。

漕いでも漕いでも、あの大地は現れない。

あの大地は、本当にあるのか。
どれだけ信じる力が強くても、心が折れてしまいそうになる。

孤独、不安、怖れ。

それは、何物も頼ることができない不安。
もう、自分がどこにいるのかすらわからない。

そんな時、ふと気がつく。
自分という存在は、自分の周りの世界によって、自分の在りようを創造していたことを。

何も無い大海原のいまここで、自分しかいない。

その時、自分という存在は、大海原のちっぽけな藻屑なのか?

それとも、自分しかいない、全宇宙の支配者なのか。

ここに意識する自分がいて、意識している時、大海原はあり、宇宙はある。

意識していないとき、大海原も、宇宙もないのだ。

あの大地はきっとある。そう信じて漕ぎ続ける。

いつしか、そのリズムとひとつになり、大海原とひとつになる。

そして、宇宙とひとつになって、宇宙の波間に軌跡が残る・・・


5月 12, 2012 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)